明顕山 祐天寺

論説

本朝芝居嘘実譚(17)

『本朝廿四孝』山本勘助

祐天寺研究室 浅野洋子

 江戸時代に作られた歌舞伎・浄瑠璃には、日本史上のさまざまな史実・人間模様が素材として織り込まれています。
『本朝芝居虚実譚』と題するこの特集ページでは、各回芝居の登場人物1名を取り上げ、史実をいかに作者が利用したか、虚実がどのように使われているかを見てまいりたいと思います。

『本朝廿四孝』

1段目
武田家の宝物、諏訪法性の兜を長尾(上杉)謙信が返さないので、両家は不和です。足利将軍源義晴の仲介で謙信の娘八重垣姫と、武田勝頼との婚姻が決まりました。ところが、義晴が何者かに鉄砲で殺されたので、犯人がつかまるまで3か年の期限付きで休戦となり、見つからない場合は、両家はそれぞれ息子の勝頼、景勝の首を討って差し出すことを決めました。

2段目
3年後、犯人はまだ不明です。武田勝頼は切腹して果てました。しかしその勝頼は、武田の家老で腹黒い板垣兵部が幼いうちに自分の子とすり替えておいた偽の盲目の勝頼だったのです。板垣は、本物の勝頼を探し出してきて殺そうとしますが、信玄に見破られて成敗されます。本物の勝頼は、偽の勝頼の恋人だった腰元濡衣とともに、諏訪法性の兜を求めて旅立ちます。

3段目
軍学者山本勘助に、2人の遺児がいました。兄横蔵はひと癖ありげに見えますが、実は深慮のある者でした。弟慈悲蔵は孝行で、母のために雪の中で筍を掘ろうとするほどでした。慈悲蔵はわが子を棄て、兄横蔵の子次郎吉を育てますが、次郎吉は実は将軍の遺児だったのです。のちに横蔵は山本勘助を名乗り、武田に仕え、慈悲蔵は上杉方に仕えることとなります。

4段目
信濃へ行った勝頼は、花作りとなり、濡衣は八重垣姫の腰元となって上杉の屋敷に入ります。許嫁の勝頼を慕う姫に、濡衣は、諏訪法性の兜を盗み出すことを条件に、真実の勝頼を引き合わせます。勝頼に謙信の討っ手がかかり、姫が兜に祈ると、姫に諏訪明神のお使いの狐が乗り移ります。姫は湖を渡って勝頼に危急を知らせに行きます。
将軍の暗殺者は美濃の斎藤道三だったことが知れ、道三は自害します。道三の打った弾は濡衣に当たり、濡衣は死にますが、濡衣は道三の娘でした。

5段目
勘助の計らいで武田・上杉両家の不和は収まりました。

山本勘助実在? 架空?

『甲陽軍艦』などにその活躍が描かれる武田の軍師・山本勘助に関しては、明治時代に田中義成博士が「一部卒ニ過ギズ」として、その活躍を架空のものとしました。昭和44年(1969)に市川家文書が発見され、再び山本勘助は実在の人物として評価されるようになってきましたが、まだ歴史家の中には、その実在を疑う人もいます。

勘助の生い立ち

勘助は、一説によると三河牛久保で生まれました。今川氏より牛久保牧野氏に遣わされて仕える山本図書の息子です。勘助は15歳のとき、牧野氏家来大林勘左衛門という者のところへ養子に行きました。しかし、大林家に実子が生まれたため、26歳のときに養家を出て西国を遍歴しました。

遍歴中に勘助が学んだのは、兵法の中でも特に城取(築城法)でした。勘助は各地で武者として働き、その過程で足と片目を悪くして体中に傷を受け、35歳の冬、大林家に戻りました。養父勘左衛門は、その身体では新しく主を取ることはできないだろうと勘助を引きとめましたが、勘助は望みがあるからと聞き入れませんでした。36歳の正月、駿河に行き、母方の従弟庵原安房守を頼んで今川家に就職を望みました。しかし、今川義元は、勘助があまり醜かったので召し抱えようとしませんでした。

武田信玄との出会い

9年間駿河にいたあと、勘助は51歳の正月、安房守の添状を持って甲州へ行き、武田晴信(のちに信玄)に召し抱えられました。晴信は23歳でした。
晴信はあのように醜いのに名前が轟いているというのは、よくよく能力が優れているのに違いないと言って、100貫の約束のところにもう百貫を上乗せして高禄で召し抱えました。

その年の暮れ、晴信は信州に出陣しましたが、11月下旬から12月15日までの間に城が9つ落ちて晴信の手に入ったのは、勘助の武略によるものでした。

外見が異常だったのに高禄で召し抱えられた勘助を、嫌う人間もいました。あるとき武田家臣の南部下野守が、言い付けに背いた家来を成敗しようとして切り損ない、空き家に閉じこもられるという事件が起きました。通りかかった勘助は心張り棒を使って家来を叩きのめし、みごと縛り上げました。ところが、下野守はこのことを感謝するどころか、「心張り棒を持ちながら3か所も手傷を負った」、「城を造ったこともないのに城取とは笑止千万」などと、勘助を中傷したのです。この中傷は晴信の知るところとなり、晴信は怒って下野守を追放しました。

部下の器量をよく知る晴信の傘下にあって、勘助は公私ともに充実の時期を迎えます。同じ家中の原美濃守虎胤の姪と結婚もし、遅まきながら家庭も持ちました。

勘助は武田24将のうちに数えられ、戦でも名を馳せましたが、最も有名なのは城取です。高遠城、小諸城、深志城(のちの松本城)、海津城などが、勘助が造った城として知られています。

やがて晴信が出家して信玄と号したのに従い、勘助も禅門に入り道鬼と号しました。

川中島の戦い

武田家の経験した大きな戦の1つが、上杉謙信と戦った川中島の合戦です。この合戦は天文22年(1553)から永禄7年(1564)まで5回ありました。
このうち、第4回の永禄4年(1561)9月の合戦が最も熾烈なものでした。先に出陣した謙信は、信玄の海津城を至近距離で望む妻女山に8月18日、本陣を置きました。謙信の出陣の報を受けた信玄は150キロの道のりをゆっくり進み、8月24日には茶臼山に布陣しました。

そのまま動かないで29日までにらみ合ったのち、武田方は勘助の提案したきつつき戦法をとりました。きつつきは木の洞の中の虫を捕まえるとき、まず洞の反対側をこつこつとつつき、虫が驚いて洞から出たところを待ち受けて食べますが、これを応用した戦術です。

1支隊を妻女山に派遣して謙信を攻めさせれば、謙信はとりでに閉じ込められまいとして、必ず山を下り、野戦の陣立てをするだろう。その陣立てのまだ整わぬうちに、あらかじめ先回りさせておいた本隊で襲うという計画です。

ところが、作戦の前日、武田方からおびただしい煙が上がるのを見た謙信は、それを出撃の準備のため飯を炊く煙と見破り、夜のうちに妻女山を空っぽにして山下で武田方を迎え撃ったのでした。

不意に上杉の大軍に遭遇した武田方は攻め立てられ、多くの将兵を失いました。そしてこの敗戦の責を負うかのように、勘助も戦死を遂げたのです。

勘助には息子がありましたが、彼ものちに長篠の戦いで死を遂げたと伝わっています。片目片足という特異な容貌ながら、優れた軍師だったという勘助の謎に満ちた人物像から、その息子について『本朝廿四孝』では、勘助の遺児としてひと癖ありげな横蔵という人物を造形したと言えるでしょう。

参考文献
『山本勘助』(上野晴朗、新人物往来社、1985年)
『甲陽軍艦』(腰原哲朗訳、ニュートンプレス、2003年)
『甲斐の虎 信玄と武田一族』(別冊歴史読本 新人物往来社、2004年)
『武田信玄―伝説的英雄像からの脱却―』(中公新書、笹本正治、中央公論社、1997年)

祐天ファミリー53号(H17-9-1)掲載

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