明顕山 祐天寺

論説

本朝芝居嘘実譚(18)

『本朝廿四孝』上杉謙信

祐天寺研究室 浅野祥子

 江戸時代に作られた歌舞伎・浄瑠璃には、日本史上のさまざまな史実・人間模様が素材として織り込まれています。
『本朝芝居虚実譚』と題するこの特集ページでは、各回芝居の登場人物1名を取り上げ、史実をいかに作者が利用したか、虚実がどのように使われているかを見てまいりたいと思います。

『本朝廿四孝』

1段目
武田家の宝物、諏訪法性の兜を長尾(上杉)謙信が返さないので、両家は不和です。足利将軍源義晴の仲介で謙信の娘八重垣姫と、武田勝頼との婚姻が決まりました。ところが、義晴が何者かに鉄砲で殺されたので、犯人がつかまるまで3か年の期限付きで休戦となり、見つからない場合は、両家はそれぞれ息子の勝頼、景勝の首を討って差し出すことを決めました。

2段目
3年後、犯人はまだ不明です。武田勝頼は切腹して果てました。しかしその勝頼は、武田の家老で腹黒い板垣兵部が幼いうちに自分の子とすり替えておいた偽の盲目の勝頼だったのです。板垣は、本物の勝頼を探し出してきて殺そうとしますが、信玄に見破られて成敗されます。本物の勝頼は、偽の勝頼の恋人だった腰元濡衣とともに、諏訪法性の兜を求めて旅立ちます。

3段目
軍学者山本勘助に、2人の遺児がいました。兄横蔵はひと癖ありげに見えますが、実は深慮のある者でした。弟慈悲蔵は孝行で、母のために雪の中で筍を掘ろうとするほどでした。慈悲蔵はわが子を棄て、兄横蔵の子次郎吉を育てますが、次郎吉は実は将軍の遺児だったのです。のちに横蔵は山本勘助を名乗り、武田に仕え、慈悲蔵は上杉方に仕えることとなります。

4段目
信濃へ行った勝頼は、花作りとなり、濡衣は八重垣姫の腰元となって上杉の屋敷に入ります。許嫁の勝頼を慕う姫に、濡衣は、諏訪法性の兜を盗み出すことを条件に、真実の勝頼を引き合わせます。勝頼に謙信の討っ手がかかり、姫が兜に祈ると、姫に諏訪明神のお使いの狐が乗り移ります。姫は湖を渡って勝頼に危急を知らせに行きます。
将軍の暗殺者は美濃の斎藤道三だったことが知れ、道三は自害します。道三の打った弾は濡衣に当たり、濡衣は死にますが、濡衣は道三の娘でした。

5段目
勘助の計らいで武田・上杉両家の不和は収まりました。

謙信の生い立ち

謙信は享禄3年(1530)、越後守護代長尾為景の末子として生まれました。童名を虎千代と言い、元服して景虎と称しました。

天文5年(1536)に父が没してからは兄の晴景が跡を継ぎ、上杉定実を守護の座に復活させました。しかし、定実が伊達稙宗の子息時宗丸を養子に迎えようとすると晴景はこれに反対し、そのために越後は乱れ、さらに黒田秀忠も晴景に背きました。景虎は反乱鎮圧に乗り出し、天文15年(1546)には中越を平定し、秀忠らを自害させました。このため景虎の名は上がりましたが、兄晴景と対立するようになりました。守護の定実の斡旋により、天文17年(1548)12月、景虎は晴景の跡を継ぐという形で春日山城に入りました。

抗争の生活

天文22年(1553)4月および8月、武田信玄が北信濃に迫ってきた状態を迎えて信濃国川中島に出兵します。また、この年に上洛して後奈良天皇から北条ならびに武田討伐の綸旨を受けました。さらに大徳寺に参禅して、徹岫宗九から宗心という法号を与えられました。

弘治元年(1555)、北条高広が信玄に応じて挙兵します。7月に景虎は川中島に出陣、対陣5か月に及びます。今川義元の斡旋により両軍とも兵を引きますが、この期間に越後の国侍の士気は緩み、内紛が起こりました。このとき景虎は突如引退を宣言し、出家するため比叡山に向かいます。27歳の若さです。しかし家臣団が帰国を要請すると景虎は、国人たちに誓紙と人質を出すという条件を認めさせて帰国に応じました。景虎はこれにより、家臣統制を強化することができたのです。

弘治3年(1557)、相模の北条氏康に追い詰められた上杉憲政が越後に亡命し、景虎に上杉家の家督と関東管領職を伝えようとしました。景虎は永禄2年(1559)に上洛して将軍の許しを得、10月28日に祝宴を開きました。憲政のためには「御館」と呼ばれた屋敷を造りました。

永禄3年(1560)、景虎は憲政を伴って関東に入り、翌4年(1561)に小田原城を攻撃しました。しかし景虎の遠征を支える領国の基盤はまだ弱く、小田原攻めは中途で諦めることとなりました。景虎は鎌倉において鶴岡八幡宮に参詣し、管領職に就いたことを宣言して名を上杉政虎と改め、帰国しました。

9月には信玄の軍と八幡原で戦いましたが、政虎の軍は退却、帰国しました。永禄5年(1562)の初頭から、政虎は輝虎と称するようになりましたが、この頃は関東、越後、信濃を転戦往来する生活が続きました。

信玄が今川氏真を攻めたため、上杉と北条は近づき、永禄12年(1569)に越相同盟ができました。翌元亀元年(1570)、氏康の子の氏秀が輝虎の養子になりました。輝虎はこれを景虎と名付け、長尾政景の娘をめとらせました。

越中評定

天正元年(1573)、信玄が西上の途上病死すると、輝虎は越中を平定しました。翌2年(1574)に剃髪し、謙信と称します。同4年(1576)に信長と結んでいた関係を破棄して本願寺と結び、同5年(1577)には能登に進んで七尾城を陥落させました。湊川で織田軍を破り、さらに関東平定のため進発しようとしていた矢先の同6年(1578)3月13日、脳溢血で倒れ、その生涯を閉じました。

謙信は身長が6尺(2メートル)に近く、目付きが鋭かったと伝えられますが、突然出家の意志を表明したり、生涯独身を通すなど、他の戦国武将とは違った一面を持っていました。

歌舞伎の『本朝廿四孝』では、勝頼に容赦なく何人もの刺客を差し向ける冷酷な武将として描かれていますが、それは、『本朝廿四孝』が勝頼(武田)側から見た物語であるためです。信玄といく度も覇を争った敵対者である謙信のことは、悪役として描いているということでしょう。

参考文献
『上杉謙信のすべて』(渡辺慶一編、新人物往来社、1987年)
『上杉謙信』(井上鋭夫、新人物往来社、1983年)
『国史大事典』(国史大事典編集委員会、吉川弘文館、1980年)

祐天ファミリー54号(H17-12-1)掲載

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