明顕山 祐天寺

論説

本朝芝居実譚(19)

『本朝廿四孝』斎藤道三

祐天寺研究室 浅野祥子

江戸時代に作られた歌舞伎・浄瑠璃には、日本史上のさまざまな史実・人間模様が素材として織り込まれています。
『本朝芝居虚実譚』と題するこの特集ページでは、各回芝居の登場人物1名を取り上げ、史実をいかに作者が利用したか、虚実がどのように使われているかを見てまいりたいと思います。

『本朝廿四孝』

1段目
武田家の宝物、諏訪法性の兜を長尾(上杉)謙信が返さないので、両家は不和です。足利将軍源義晴の仲介で謙信の娘八重垣姫と、武田勝頼との婚姻が決まりました。ところが、義晴が何者かに鉄砲で殺されたので、犯人がつかまるまで3か年の期限付きで休戦となり、見つからない場合は、両家はそれぞれ息子の勝頼、景勝の首を討って差し出すことを決めました。

2段目
3年後、犯人はまだ不明です。武田勝頼は切腹して果てました。しかしその勝頼は、武田の家老で腹黒い板垣兵部が幼いうちに自分の子とすり替えておいた偽の盲目の勝頼だったのです。板垣は、本物の勝頼を探し出してきて殺そうとしますが、信玄に見破られて成敗されます。本物の勝頼は、偽の勝頼の恋人だった腰元濡衣とともに、諏訪法性の兜を求めて旅立ちます。

3段目
軍学者山本勘助に、2人の遺児がいました。兄横蔵はひと癖ありげに見えますが、実は深慮のある者でした。弟慈悲蔵は孝行で、母のために雪の中で筍を掘ろうとするほどでした。慈悲蔵はわが子を棄て、兄横蔵の子次郎吉を育てますが、次郎吉は実は将軍の遺児だったのです。のちに横蔵は山本勘助を名乗り、武田に仕え、慈悲蔵は上杉方に仕えることとなります。

4段目
信濃へ行った勝頼は、花作りとなり、濡衣は八重垣姫の腰元となって上杉の屋敷に入ります。許嫁の勝頼を慕う姫に、濡衣は、諏訪法性の兜を盗み出すことを条件に、真実の勝頼を引き合わせます。勝頼に謙信の討っ手がかかり、姫が兜に祈ると、姫に諏訪明神のお使いの狐が乗り移ります。姫は湖を渡って勝頼に危急を知らせに行きます。
将軍の暗殺者は美濃の斎藤道三だったことが知れ、道三は自害します。道三の打った弾は濡衣に当たり、濡衣は死にますが、濡衣は道三の娘でした。

5段目
勘助の計らいで武田・上杉両家の不和は収まりました。

道三の生い立ち

明応3年(1494)、山城国乙訓郡西岡に住む貧しい下級武士、松波左近将監基宗に息子が生まれました。峰丸と名付けられた子は、父基宗が法華宗の信者であったので、11歳のとき、京の妙覚寺に入れられ、日善上人のもとで僧としての修行をすることになりました。僧侶としての名は法蓮坊と言います。

法蓮坊はやがて還俗して松波庄五郎と名乗り、西ケ岡の奈良屋という油屋に婿入りしました。名は、山崎屋庄五郎と改めました。庄五郎は油を売りに毎年のように美濃に下り、見聞を広めました。

美濃の蝮

そのうち庄五郎は、妙覚寺にいたときの同僚で、その後に美濃常在寺の住職になっていた日護上人の推挙により、上人の兄で実力者の長井長弘のもとに仕えるようになりました。長弘は、知恵のある庄五郎を高く評価し、西村勘九郎と名乗らせました。さらに長弘は、勘九郎を美濃の守護、土岐政頼に引き合わせましたが、政頼は「あの者の人相は尋常ではない。大事を引き起こす曲者である」と言って城中に入ることを禁じました。

勘九郎はそれくらいでへこたれません。政頼の弟で政治的ライバルでもある土岐頼芸に、歌舞音曲が得意であることを生かして接近しました。そして頼芸に巧みに兄を追放して守護に成り代わるようにそそのかし、それに成功したのです。
その後、美濃の国主となった頼芸の信頼を受けた勘九郎は、土岐家の家臣第1席でありかつての主君でもあった長井長弘を暗殺し、その家督を継ぎ、長井政利(利政)と名乗り、土岐家中随一の実力者となりました。一説にはこの頃から道三と号したと言います。さらに政利は、守護代として美濃国に権勢を振るっていた斎藤氏の跡継ぎである斎藤利長が病死した折、その跡を継ぎ、斎藤利政と名乗りました。そしてついに主君頼芸を天文11年(1542)に追放し、自ら美濃の国主となったのです。

土岐一族は朝倉氏、織田氏に援助を求め、これを美濃侵略の好機と捉えた両氏は斎藤道三(利政)を攻めました。激しい戦いが行われましたが、今川氏の進出に対抗するため、織田信秀は美濃侵略を中断し、道三の娘を3男信長の嫁に迎え、両者の同盟が成立しました。これにより美濃は一時安定期を迎えるのです。

天文23年(1554)、道三は突然引退して剃髪しました。家督は息子の利尚(義龍)に譲りました。義龍は、土岐頼芸から譲られた愛妾三芳野に生まれた子ですが、譲られて1年経たないうちに生まれたため、頼芸の子ではないかと噂されていました。そのため、義龍は親が追放された仇を討ったのだなどと言われることもあります。
弘治2年(1556)に義龍との関係が悪化した道三は、義龍軍の10分の1の軍勢で戦いを挑みますが敗北し、討ち死にしました。63歳でした。下剋上でのし上がった道三らしい死に方だったと言えるでしょう。

主君をだまし、殺め、のし上がる……下剋上を体現したような一生を送った道三は、『本朝廿四孝』において将軍の暗殺者という役割にふさわしい人物と言えます。作者は道三のイメージにふさわしい役を作ったと言えるでしょう。

参考文献 「美濃斎藤氏の盛衰」(勝又鎮夫、『中部大名の研究』、吉川弘文館、1983年)

祐天ファミリー55号(H18-2-15)掲載

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