明顕山 祐天寺

論説

本朝芝居嘘実譚(20)

『平家女護嶋』文覚法師

祐天寺研究室 浅野祥子

江戸時代に作られた歌舞伎・浄瑠璃には、日本史上のさまざまな史実・人間模様が素材として織り込まれています。
『本朝芝居虚実譚』と題するこの特集ページでは、各回芝居の登場人物1名を取り上げ、史実をいかに作者が利用したか、虚実がどのように使われているかを見てまいりたいと思います。

『平家女護嶋』

1段目

平清盛に逆らい、俊寛は島流しにされましたが、その妻あづまやは、清盛に横恋慕されます。平重衡が討った奈良法師と、文覚法師から奪った源義朝のしゃれこうべと大仏の首を六条河原に晒しているところに文覚が現れ、義朝のしゃれこうべを奪い去ります。清盛の使者能登守教経は、あづまやの貞女の様子に感銘を受け、「清盛の前へ出なさい、ただし貞女の道は立てさせよう」と申し出ますが、あづまやはそれに感謝しつつ、自害して操を守ります。

2段目

清盛の娘の中宮の出産に際し、安産の祈祷のため罪人の赦免が行われました。鬼界が嶋に流された丹波の少将成経、平判官康頼は赦されましたが、同じ場所に流された俊寛だけは赦されませんでした。能登守教経は、平重盛の言葉を重んじ、俊寛の赦し文を書き、関所の二人という字にも1点を加えて三にします。
鬼界が嶋の3人はぼろをまとい、ようやく暮らしていました。成経が海女の千鳥と結婚したことが、わびしい暮らしの中の明るい話題でした。
赦免船が島に着き、3人とも乗船しますが、千鳥は乗船を赦されませんでした。自害しようとする千鳥を俊寛は止め、「妻のあづまやも死んでしまった都に帰りたくはない、自分の代わりに船に乗れ」と言います。上使の瀬尾太郎はそれを赦さず、俊寛を罵倒し連れ帰ろうとします。俊寛は瀬尾と斬り合いをし、とどめを刺します。もう1人の上使丹左衛門は俊寛を残し、千鳥を含めた3人を船に乗せて船出します。

3段目

平重盛は病気で屋敷にこもっていますが、ときわ御前の屋敷の辺りで男が多数行方不明になっていることを知り、弥平兵衛宗清に追求を命じます。ときわは侍女の笛竹と雛鶴に道を通る男を誘ってこさせ、源氏に味方するよう促し、従わない者は殺していたのでした。笛竹とは、実は牛若丸だったのです。宗清はもと源氏に仕える武士だったので、肌身離さず持ち歩く源氏の白旗を2人に渡し、自分を1太刀突いて退散するように言います。2人がためらううちに床下から槍で突いたのは、雛鶴でした。雛鶴は実は宗清の娘松枝だったのです。ときわ親子と松枝は宗清と別れ、去っていきます。

4段目

少将成経と康頼、千鳥が乗った赦免船は備後国に着きました。俊寛の家来、有王丸は主人を迎えにきて落胆します。そこに、清盛と法王を乗せた船が来合わせます。清盛は法王を海へ投げ込みますが、海女の千鳥が救って有王丸に渡します。清盛は千鳥を捕らえ、踏み殺しますが、千鳥の怨念は清盛に取り付きます。清盛はそれから高い熱を出し、病気となります。あづまやと千鳥の亡魂が清盛を苦しめ、ついに清盛は亡くなるのでした。

5段目

蛭が小島の源頼朝に平家追討の旗を挙げさせようと、文覚が急いでいます。途中で義朝のしゃれこうべを枕にして、平家が滅びる夢を見ました。目が覚めた文覚は勇んで頼朝のもとへ急ぐのでした。

文覚の出家

文覚は保延5年(1139)摂津の国の武士団、渡辺党の一族遠藤氏に生まれました。俗名は盛遠と言います。

初めは上西門院に仕える武士でしたが、人妻の袈裟に恋をしました。強引に言い寄る文覚に、袈裟は「それならば夫を殺してください」と持ち掛けます。夫に髪を洗わせて寝かせておくから、それを目当てに殺せばよいとのことです。喜んだ文覚はその夜館に忍び込み、夫の首をかき斬ります。しかし、翌日暁の光の下で見た首は、袈裟その人のものだったのです。
後悔に身を焼いた文覚は、髻を切り、出家しました。しかし、過激な行動は収まるどころか、ますます盛んになっていくのでした。

伊豆への流罪

承安3年(1173)、文覚は後白河法皇が音楽会を開いているところへ乗り込み、朗々と神護寺の復興を願う勧進帳を読み上げました。音楽会はめちゃくちゃになり、文覚は取り押さえられて牢に入れられました。引っ立てられながらも文覚は、大音声を上げて「寄進をしないばかりか、文覚をこれほどひどい目に遭わせるならば、思い知らせようものを。たとえ天皇でも、黄泉の旅に出れば牛頭馬頭の責めを免れないものを」と、躍り上がり躍り上がりして怒鳴ったということです。文覚がこんな行動をするほど思い詰めた神護寺復興ですが、これは、強い弘法大師信仰から出たのであろうと言われています。

文覚は伊豆に流罪と決まりました。そのときも船で護送される途中、暴風雨に遭い、水主たちがあわてる中、龍神を叱り付けて嵐を治めたという話も残っています。

伊豆でも文覚がおとなしくしているわけはありません。当時、伊豆には源頼朝が流人として暮らしていました。平治の乱で捕らえられた頼朝は、あやうく殺されるところでしたが、池の禅尼の取りなしで死刑を免れ、伊豆蛭が小島に流されていたのでした。文覚はこの頼朝に目を付けました。頼朝が天下を取れば、その力を背景に神護寺復興ができると見たからです。

文覚は頼朝を説き伏せるために、にせ首を見せて、「これはあなたの亡父、義朝の髑髏である、親のかたきをとる志はないのか、あなたには『威応の相』がある」と言って煽動したと言います。『平家物語』や『源平盛衰記』に出てくる、この話をもとに、近松門左衛門は、『平家女護嶋』の1段目と5段目を書いたことがわかります。

頼朝はついに治承4年(1180)に旗揚げをします。すでに流罪を免じられていた文覚は、その間頼朝の護持僧兼隠密となって、京都伊豆間を頻繁に行き来した形跡が見られます。

その後の文覚

やがて寿永元年(1182)、神護寺再興の許可を後白河法皇により認められ、翌年寺領を寄進されたのをはじめ、頼朝からも寺領寄進を受けて、神護寺の復興を実現しました。

ついで、東寺、高野山大塔、東大寺などの修造にも力を尽くしました。後白河法皇、頼朝らが没すると、正治元年(1199)には源通親襲撃計画にかかわったという理由で佐渡へ流され、いったん赦されたものの3年後にまた対馬へ流罪となり、対馬へ向かう途中没したと言います。

『平家女護嶋』は、「行はあれど学なき荒聖人」などと評された文覚の青春期の、最も文覚らしい逸話を利用した作品と言えるでしょう。

参考文献
『平家女護嶋』『近松浄瑠璃集』下、岩波書店日本古典文学大系、1959年
『平家物語の人びと』山田昭全、新人物往来社、1972年
『文覚上人一代記』相原精次、青蛙房、1985年
『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年

祐天ファミリー57号(H18-6-20)掲載

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