明顕山 祐天寺

論説

本朝芝居虚実譚(21)

『平家女護嶋』平重盛

祐天寺研究室 浅野祥子

江戸時代に作られた歌舞伎・浄瑠璃には、日本史上のさまざまな史実・人間模様が素材として織り込まれています。
『本朝芝居虚実譚』と題するこの特集ページでは、各回芝居の登場人物1名を取り上げ、史実をいかに作者が利用したか、虚実がどのように使われているかを見てまいりたいと思います。

 

『平家女護嶋』

1段目

平清盛に逆らい、俊寛は島流しにされましたが、その妻あづまやは、清盛に横恋慕されます。平重衡が討った奈良法師と、文覚法師から奪った源義朝のしゃれこうべと大仏の首を六条河原に晒しているところに文覚が現れ、義朝のしゃれこうべを奪い去ります。清盛の使者能登守教経は、あづまやの貞女の様子に感銘を受け、「清盛の前へ出なさい、ただし貞女の道は立てさせよう」と申し出ますが、あづまやはそれに感謝しつつ、自害して操を守ります。

2段目

清盛の娘の中宮の出産に際し、安産の祈祷のため罪人の赦免が行われました。鬼界が嶋に流された丹波の少将成経、平判官康頼は赦されましたが、同じ場所に流された俊寛だけは赦されませんでした。能登守教経は、平重盛の言葉を重んじ、俊寛の赦し文を書き、関所の二人という字にも1点を加えて三にします。
鬼界が嶋の3人はぼろをまとい、ようやく暮らしていました。成経が海女の千鳥と結婚したことが、わびしい暮らしの中の明るい話題でした。
赦免船が島に着き、3人とも乗船しますが、千鳥は乗船を赦されませんでした。自害しようとする千鳥を俊寛は止め、「妻のあづまやも死んでしまった都に帰りたくはない、自分の代わりに船に乗れ」と言います。上使の瀬尾太郎はそれを赦さず、俊寛を罵倒し連れ帰ろうとします。俊寛は瀬尾と斬り合いをし、とどめを刺します。もう1人の上使丹左衛門は俊寛を残し、千鳥を含めた3人を船に乗せて船出します。

3段目

平重盛は病気で屋敷にこもっていますが、ときわ御前の屋敷の辺りで男が多数行方不明になっていることを知り、弥平兵衛宗清に追求を命じます。ときわは侍女の笛竹と雛鶴に道を通る男を誘ってこさせ、源氏に味方するよう促し、従わない者は殺していたのでした。笛竹とは、実は牛若丸だったのです。宗清はもと源氏に仕える武士だったので、肌身離さず持ち歩く源氏の白旗を2人に渡し、自分を1太刀突いて退散するように言います。2人がためらううちに床下から槍で突いたのは、雛鶴でした。雛鶴は実は宗清の娘松枝だったのです。ときわ親子と松枝は宗清と別れ、去っていきます。

4段目

少将成経と康頼、千鳥が乗った赦免船は備後国に着きました。俊寛の家来、有王丸は主人を迎えにきて落胆します。そこに、清盛と法王を乗せた船が来合わせます。清盛は法王を海へ投げ込みますが、海女の千鳥が救って有王丸に渡します。清盛は千鳥を捕らえ、踏み殺しますが、千鳥の怨念は清盛に取り付きます。清盛はそれから高い熱を出し、病気となります。あづまやと千鳥の亡魂が清盛を苦しめ、ついに清盛は亡くなるのでした。

5段目

蛭が小島の源頼朝に平家追討の旗を挙げさせようと、文覚が急いでいます。途中で義朝のしゃれこうべを枕にして、平家が滅びる夢を見ました。目が覚めた文覚は勇んで頼朝のもとへ急ぐのでした。

 

重盛の人柄

平重盛は清盛の嫡男として生まれました。清盛が多くの敵と戦い、その栄華を築いていくのを、間近で見ながら育ちました。『保元物語』には、鎮西八郎為朝の陣に真っ先に突っ込んでいく若い武将らしい重盛の姿が描かれています。『平治物語』にも、重盛が平家の大軍に対して勇ましい号令を発したことがつづられています。『保元物語』『平治物語』では、勇ましい若武者として重盛像が描かれていると言えます。

それに対して『平家物語』では、重盛に国と君のことを重んじ、寛大な心を持ち、仏法を守護する者という役割を与えています。安元3年(1177)6月1日、鹿ケ谷の陰謀が発覚し、平家打倒を目論んでいた者たちが逮捕されました。黒幕が後白河院だとにらんだ清盛は、軍兵を率いて法皇を幽閉しようとします。鎧を着込んで今にも法皇の御所へ攻め入ろうとする清盛のところへ重盛は駆け付け、忠義をいたそうとすると、父の恩に報いることができない。不孝になるまいとすれば不忠の逆臣となってしまう」と訴え、ついに清盛の御所攻めをやめさせます。これが、『平家物語』での代表的な重盛像です。今日では、『保元物語』、『平治物語』の重盛像のほうが史実により近く、『平家物語』ではそれが変化させられているというのが、常識となっています。

では、『平家女護嶋』ではどうでしょうか。『平家女護嶋』で重盛は2か所に登場します。2段目の俊寛の件で清盛の意に反して俊寛を赦してやるところと、3段目の病気で屋敷にこもっているところです。

2段目ですが、鹿ケ谷の罪人である藤原成親に対し、重盛が積極的に助命に働いたというのは事実のようです。しかし、実は重盛の妻は成親の妹であり、また重盛の嫡男維盛の妻は成親の娘であるという、深い姻戚関係を結んだ相手だったのです。助命運動の理由を単に重盛の優しさとはとれないところです。この助命運動が『平家女護嶋』での俊寛の流罪の免除へと影響を与えている可能性もあります。

3段目で、病床の様子はこのように描かれます。「父入道を諫めかね。世を思ふゆゑ物思ふおもひつもりし日陰の雪きゆる。間を待つばかりなり」。暴虐な父に対し、人徳優れた息子、という『平家物語』の構図を引き継いでいることがわかります。

『平家女護嶋』での重盛像は、善人として描かれた『平家物語』の中野重盛像を踏襲していると考えて良さそうです。

参考文献
『平家女護嶋』『近松浄瑠璃集』下、岩波書店日本古典文学大系、1959年
『平家物語の人びと』山田昭全、新人物往来社、1972年
『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年

祐天ファミリー58号(H18-9-1)掲載

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