明顕山 祐天寺

論説

歌舞伎・浄瑠璃と仏教(一)

阿弥陀如来(その1)

祐天寺研究室 浅野祥子

日本文化は仏教と深い関わりをもっていますが、歌舞伎・浄瑠璃も仏教と密接にかかわっています。
今号から数回に分け、仏さまごとにそれを探ってまいりたいと思います。
(歌舞伎等の作品は、現在も上演されているものを中心に取り上げていきたいと思います。)
第1回目は西方極楽浄土の主、阿弥陀如来です。
阿弥陀仏は、その48願で知られ、特に第18願「助けたまえ阿弥陀仏、と念じるすべての人を救えなければ自分は成仏しない」という誓いは、時代を超えて広く、来世を望む人々の信仰を集めてきました。
現世に望みを失った人、死に直面した人はひたすら弥陀を念じて名号を唱えたのです。

『一谷嫩軍記』について

『一谷嫩軍記』は、平家物語の世界を描いた、名作です。宝暦元年(1751)12月、大坂豊竹座で初演されました。並木宗輔、浅田一鳥らの合作です。3段目まで宗輔が書き、これが遺作となりました。全5段からなりますが、中でも有名なのは、3段目の「熊谷陣屋」の段です。驕り高ぶった平家は、首領清盛の死後、木曽義仲、源頼朝ら源氏の相次ぐ挙兵により、瞬く間に武運を失い、幼帝安徳天皇と3種の神器を奉じて都を捨てて多数の船に乗り、西海へ流浪の旅に出ています。そして一谷合戦ですが、史実では元暦元年(1184)2月7日に起こりました。後ろは断崖、前は海の難所、一谷に陣を構えた平家でしたが、まさかと思った絶壁越え、「鵯越の坂落とし」を義経が強行したことにより、一族の有力な武将、通盛、忠盛、経俊、知章、敦盛、業盛、経正、師盛が討ち死にし、平家は手痛い打撃を負いました。この結果源氏の優勢は確実となり、翌年いよいよ屋島、そして最後の合戦地、壇ノ浦へと向かって行くのでした。

熊谷直実の出家
芝居では、このうち、平敦盛が弱冠16歳で源氏方の武将熊谷直実に討たれた逸話を取り上げます。史実でも、熊谷はのちに出家し、蓮生と名乗って法然上人の弟子となっているのですが、これは息子のような若い敦盛を討った心の痛みからだと伝えられています。これがお芝居になりますと、敦盛は実は後白川院の御落胤であり、それを知る義経が密かに熊谷に、敦盛を助けることを命じていたという設定になります。窮地に陥った熊谷は、我が子小次郎の首を身代わりに打ち、敦盛の首として差し出すのでした。忠義は全うしたものの、忠義の結果得る家の面目、これを受け継ぐ我が子はもういない、「16年は一昔。夢だ、夢だ」、「熊谷が向かうは西方弥陀の国。倅小次郎が抜け駆けしたる九品蓮台」。絶望した熊谷が願うものは、最早、西方浄土への往生しかありませんでした。歌舞伎の1段の幕切れ、出家姿で花道を入る熊谷はまっすぐ、当時比叡山黒谷にいた法然上人の元へ急ぐのでした。

弥陀六、宗清
このお芝居では、もう1人、阿弥陀信仰と切り離せない人物が出てきます。石屋の弥陀六という爺です。
山野に石塔を建てているというので、平家の余類ではないかと、源氏の陣屋に喚ばれて詮議されているのですが、この人物、実は弥平兵衛宗清という平家の侍です。宗清は、以前平家が平治の乱(1159年)で源義朝を滅ぼした時、池禅尼とともに清盛に願って義朝と3人の子を助けたという前歴の持ち主です。3人の子が成長して頼朝、範頼、義経となり、平家追討を進める今、次々と討ち死にする平家の公達の供養塔を建てながら、宗清の心は悔恨と懺悔で一杯です。
「あのとき幼子を助けずば、平家を追い落とす大将はいないものを」
花道を立ち去ろうとする弥陀六を、舞台の義経が呼び止めます。
「弥平兵衛宗清、待て」。
才人義経は、まだ乳飲み児の頃に母常磐の懐に抱かれながら見た、宗清の眉間の黒子(白毫の弥陀六の呼び名の元でもある)を覚えていたのでした。宗清の襦袢には、ぎっしりと弥陀の名号(演出によっては討ち死にした人の名)が書かれています。
「平家の一門先立ち給ふ御方々の石碑。播州一国那智高野。近国他国に建て置きし施主の知れぬ石塔は。皆これ弥平兵衛宗清が。涙の種と御存知知らずや」
義経は敦盛を弥陀六の手に渡します。敦盛は、芝居では無事生き延びられそうですが、史実では先述したように若い命を散らしています。
「弥陀」の手に託されたという事で、作者は事実を暗示しているのかも知れません。

浄瑠璃『一谷嫩軍記』は評判を呼び、翌宝暦2年(1752)には歌舞伎化もされ、広く人々の涙を誘います。作品の奥深く流れる、人間の生を見つめた眼差しと来世を望む締観、これが人々の共感を呼んだものと思われます。

祐天ファミリー14号(H9/12/1)掲載

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