明顕山 祐天寺

論説

歌舞伎・浄瑠璃と仏教(一)

阿弥陀如来(その2)

祐天寺研究室 浅野祥子

阿弥陀仏は、広い階層の人々に信仰されました。特に女性や、平民階級の名もなき人々、弱い立場の彼らこそ、弥陀の本願によって救われたいという切なる希望を持っていたのです。歌舞伎・浄瑠璃作品中で阿弥陀信仰は、特に念仏、念仏講(毎月信者が集まって名号などを掛け、念仏を唱えた。近所の交際、情報交換の場でもあった)という形で現れています。

『夏祭浪花鑑』
大坂の男達団七九郎兵衛は、恩人の息子磯之丞とその愛人琴浦をかくまいますが、琴浦に横恋慕する佐賀右衛門は、団七の舅で強欲な義平次を買収します。義平次は琴浦を連れ出して佐賀右衛門に渡そうとしますが、駆け付けた団七と揉み合いになり、ついに団七に殺されます。にぎやかな高津祭りの宵宮(祭りの前夜)に泥田で行われた凄惨な舅殺しは、鮮やかな団七の彫り物とともに鮮烈な印象を与えます。

このお芝居で重要な脇役を演じるのが、団七の味方の老侠客、釣舟三婦です。釣舟三婦は数年前までは大の喧嘩好きで、毎日毎晩喧嘩に明け暮れていましたが、今は虫も殺さぬ仏性となり、数珠を片時も離しません。耳に掛けて持ち歩いています。団七が見て、
「ヤ、こんたもだいぶ、信心者になったの」
とあきれると、
「今はとんと、腹が立っても南無阿弥陀仏、笑ひ笑ひも、南無阿弥陀仏。念仏講で忙しい」
と笑います。しかし、琴浦を付けねらう敵が来ると数珠をふっつり切り、相手になるぞと、もとの勇み肌に戻るのでした。

市井には、年を取り隠居してからは、念仏講を楽しみに暮らしている、善男善女が多くいたのでした。次に挙げる作品も、講と深いかかわりがあります。

『心中宵庚申』
大坂の八百屋の若夫婦、お千代半兵衛が情死した事件をもとにした、近松門左衛門の傑作です。なぜ夫婦が、しかも千代は腹に4か月の子もいる身で心中しなければならなかったかという問題の理由付けとして、近松は、千代が今回3度目の嫁入りだったという事情を加えます。最初の夫は破産したため実家に引き取られ、次の夫とは死に別れたとはいえ、千代についてさまざまな噂が立ち、実家の家族は肩身の狭い思いをしていました。3度目の嫁入りのときは、「死んでも家に戻るな」と言い含めていたのでした。

3度の嫁入りを経験したにもかかわらず、おっとりしてうぶな気性を失わない千代は半兵衛と仲むつまじく、子も身ごもりました。しかし、この半兵衛は実は養子だったのです。姑は勝ち気な性格で、のんびりした千代が気に入らず、また1つには仲の良い夫婦へのねたみもあって千代を追い出しにかかります。しかし千代はもう実家には戻れません。大恩ある養い親と妻の間に挟まれて半兵衛は苦悩します。

義父伊右衛門は信心家で、講の活動にも熱心でした。義父母が宵庚申〔庚申待ち(寝ずに潔斎する行事)をする前夜〕の晩に寺の鐘の開眼供養(義父はその鐘を造る講に参加していた)に出かけたあと、半兵衛夫婦は生玉馬場先の大仏勧進所に出掛け、胎内の子の供養をしたあとで死を遂げたのでした。なぜ大仏勧進所を死にどころに選んだかというと、伊右衛門は大仏勧進の講でも第一人者だったため、その由縁を考えてのことでした。最後の場面は哀切の極みです。半兵衛は「光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨」と『観無量寿経』の1節と十念を唱え、合掌する千代を刺し殺します。

明日は未来で添ふものを、別れはしばしの、この世の名残、十念迫って一念の、声もろともにぐっと刺す、
喉の呼吸も乱るる刃、思ひ切っても四苦八苦、手足をあがき、身をもがき、卯月六日の朝露の草には置かで、毛氈の、上になき名を留めたり、

死ぬ間際まで身重の妻を冷たい地面には座らせず、毛氈の上に座らせている半兵衛の心の内の無念さが思いやられます。また、最期に弥陀を讃える『観無量寿経』の1節と十念(浄土宗で10回念仏を唱え、信者が仏と縁を結ぶ方法)を唱えているのも、阿弥陀仏、念仏が人々の身近にあった証と受け取れます。

次回は観世音菩薩を取り上げます。

祐天ファミリー15号(H10/2/15)掲載

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