明顕山 祐天寺

論説

歌舞伎・浄瑠璃と仏教(4)

観世音菩薩(その2)

祐天寺研究室 浅野祥子

観世音菩薩は、勢至菩薩とともに阿弥陀如来の脇侍の菩薩です。
人々に親しまれている観世音菩薩は、歌舞伎・浄瑠璃の中にも大変多く登場します。
今回は観世音菩薩の2回目です。

前回、西国三十三観音巡りのことに触れましたが、その由来は、養老年間(717~724)大和国初瀬寺(長谷寺)の徳道上人が始めた、また、花山天皇が退位後始めたなどの説があります。江戸時代にはこの西国三十三観音巡りが大変流行しました。

その第6番の札所が、壺坂山南法華寺で、奈良県にあります。この寺を舞台にして書かれた浄瑠璃が『三十三所花の山 壺坂霊験記』です。作者不詳(松月堂呑共作ともいう)の作品に2世豊沢団平、加古千賀女夫妻が補訂、作曲をして明治12年(1879)大阪で初演されました。

『壺坂霊験記』―3つ違いの兄さんと
目の不自由な按摩沢市の妻、お里は美人で有名でした。お里の両親は早く亡くなり、伯父である沢市の親がお里を引き取って育て、息子と夫婦にしたのです。

お里は貧しい家計を助け献身的に夫に仕えていました。しかし、最近沢市の表情がなぜか冴えません。妻のお里が毎日明け方そっと寝床を抜け出すのは、ほかに男がいるのだろうと苦悩しているのです。ついに沢市はその疑いをお里に打ち明けます。

コレどうぞ明かして言うてたもと。立派に言へど目にもるゝ。涙呑込む盲目の。心の内ぞせつなけれ。聞くにお里は身も世もあられず。縋り付いて。エエソリャ胴欲な沢市様。いかに賤しい私じゃとて。現在お前を振捨てゝ。外に男を持つ様な。そんな女子と思うてか。ソリャ聞えませぬ。エゝ聞えませぬわいな。モ父様や。母様に別れてから。伯父様のお世話になり。お前と一緒に育てられ。三つ違ひの兄さんと。いうて暮してゐる内に。情なやこなさんは。生れも付かぬ疱瘡で。眼かいの見えぬ其上に。貧苦にせまれど何のその。一旦殿御の沢市様。たとへ火の中水の底。未来までも夫婦ぢゃと。

有名なお里のクドキです。里は観世音に沢市の眼が見えるようになることを祈るため、毎朝参詣を続けていたことを訴えます。沢市は疑いを晴らしますが、けなげな妻に感謝すればするほど、盲目だという心の負い目に耐えきれず、自分が死んで妻を自由にすることが感謝のしるしであると、ついに壺坂寺の崖の上から谷底へ身を投げてしまいました。それと知ったお里もあとから身を投げ、哀れ2人は絶命してしまいました。

しかし若い2人を憐れんだ観世音の利益により2人は命を助けられ、あまつさえ沢市は両眼が開いたのです。

観音の利験でめでたい幕切れとなるこの曲は、至純の夫婦愛の美しさと2世団平の節付けの巧さにより、明治期の作としては屈指の人気曲となりました。観世音信者の講中の団体観劇で混み合うこともあったそうです。

2世団平
三味線の名人だった2世豊沢団平は、「鹿鳴館時代」と言われる明治初頭の西洋文化崇拝の波の中で、浄瑠璃に新しい息吹を吹き込んで守り抜いた功労者ですが、名人肌で一徹だった彼の人生は興味をそそられるものです。

団平は文政10年(1827)播州に資産家の子として生まれました。父親が芸好きで浄瑠璃に打ち込んだ結果家が傾き、団平は大阪に出て3代目広助の弟子となり、三味線弾きになりました。酒好きで物事にこだわらず、芸のことしか頭になかったと伝えられます。日本一の三味線の名人と讃えられながら、貧しい長屋住まいに終始しました。金を数えるのが面倒で、紙に包んだまま屑籠に入れる癖があり、晦日に借金取りが来ると、いくらでもそこから拾って持って行けと言ったそうです。初めの妻には死に別れ、節付けを手伝った千賀女は後妻でした。

千賀女は若い頃、奉公に上がった備前の藩邸で主人の手が付いて懐妊し、宿下がりをし、母親と京都で芸者置屋をしていました。「何でもいいから日本一の男の女房になりたい」と願っていた千賀女と、妻に死に別れ、男手1つで2人の子供を育てていた日本一の三味線弾き団平とが結ばれたのです。

「壺坂霊験記」のお里沢市のような幼なじみの夫婦とはまた違う出会いをした作者夫婦ですが、団平の作品を千賀女も手伝い、千賀女のことは団平も一目おいて扱うという仲で、息のぴったり合った仕事を残しました。「舞台で死ね」と日頃弟子たちに言っていた団平はその言葉どおり、明治31年(1898)4月、稲荷座の初日の舞台で撥を握ったまま倒れ、帰らぬ人となったのでした。

 

祐天ファミリー第17号(H10/6/20)発行

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