明顕山 祐天寺

論説

歌舞伎・浄瑠璃と仏教(五)

観世音菩薩(その3)

祐天寺研究室 浅野祥子

観世音菩薩は、勢至菩薩とともに阿弥陀如来の脇侍の菩薩です。
人々に親しまれている観世音菩薩は、歌舞伎・浄瑠璃の中にも大変多く登場します。
今回は観世音菩薩の3回目です。

観音の利益譚では、現世利益(この世での幸福)がしばしば扱われます。それには「観音を信仰すれば、危難を避けることができ、求めるものが手に入る」と書いてある「観音経」(『法華経』普門品)の影響が大きいのです。来世の往生への願望もさることながら、今生きている世の中での幸福は庶民の重大な関心事であり、観音菩薩は人々の熱心な信仰を集めました。景清にまつわる観音信仰も現世利益とかかわりがあります。

悪七兵衛景清
平家の侍大将で藤原(伊藤)忠清の子の景清は、俗に「悪七兵衛」と呼ばれ、たくさんの伝説が伝わっています。「悪」とは「強い」という意味です。それらの伝説をもとに能の諸作品が創られ、浄瑠璃でもいくつかの作品が創られました。その1つは貞享2年(1685)に初演された近松門左衛門作の『出世景清』です。そのほか享保17年(1732)の文耕堂作『壇浦兜軍記』、宝暦14年(1764)の若竹笛躬作『嬢景清八島日記』などがあります。歌舞伎の作品も生まれ、市川団十郎の家に伝わる歌舞伎十八番の中には『景清』『関羽』『解脱』『鎌髭』の4つの景清物があります。

『出世景清』
景清の伝説の中でも有名なのが観音の利生譚です。近松の『出世景清』からご紹介しましょう。

平家滅亡後、景清は源頼朝を東大寺大仏供養の席上暗殺しようと企てますが、愛人阿古屋の裏切りに会い、捕らえられて牢に入れられます。阿古屋は小野姫への嫉妬と兄十蔵の勧めから景清を裏切ったのですが、それを悔い、2人の子を道連れに自害します。

景清は牢を破って十蔵を引き裂きますが、その後首を打たれます。ところが三条縄手にさらされていたその首は、光輝く観音の首と変じたのです。日頃の信心に感じ、清水寺の観世音が身代わりに立たれたのでした。頼朝は景清を許し、領地までも与えます。

景清は頼朝への恩を感じますが、一族を滅ぼした敵への憎しみは消しがたく、自分の中の怨念を消そうと両眼をくり抜きます。
クライマックスの1つ、牢破りの場面の原文を挙げておきます。

南無千手千眼生々世々。一聞名号滅重罪大慈大悲観音力と。金剛力を出しゑいやつと身ぶるひすれば。大釘大縄はら  ずんと切れてのいた。閂取て押しゆがめ扉をかつはと踏み倒し大手をひろげて踊り出。八方に追ひまわすは荒れたる夜叉のごとく也。

初演の年、貞享2年(1685)に僧公慶により開始された東大寺大仏修復の大勧進を当て込んで書かれた作品ですが、それが当たり、大評判を博しました。

歌舞伎十八番『景清』
歌舞伎十八番の『景清』の牢破りは下記のように行われました。

「アラ心地よや、星まんまんたりと雖も、月の光に勝こと能はず。イデもの見せん」といふまゝに、牢の格子へ右ん手をかけ、力をこむればゆさゆさゆさ、又もかゝるを打払ひ、ふんはたがつたる有さまは、めざましくもまたすさましゝ。

格子を引き抜いてそれを振り回し、群がる敵をなぎ倒します。景清のこの豪快さが特に江戸の民衆の人気を呼びました。それとともに景清の観音信仰も有名になり、江戸で寛保3年(1743)4月に浅草西福寺において京清水円養院観世音(景清の守本尊)が開帳されています。また、宝暦7年(1757)に上野清水観世音が開帳された折には、画工雪仙斎尚徳が景清牢破りの額絵を奉納しています(『武江年表』)。

上野の清水観世音は落語の『景清』でも有名です。にわかに目が見えなくなった定次郎が、清水観世音を信仰し見えるようになりますが、観世音に貸してもらった眼が景清の眼であったため、殿さまの行列を見るとつい打ちかかってしまう……という、滑稽噺です。上野清水観世音が眼をくり抜いた景清の由縁から、眼が見えない人の信仰を集めていたことがしのばれます。景清と観音信仰はこのように、江戸の人々の暮らしに深く染みわたっていたのでした。

祐天ファミリー19号(H10/12/1)発行

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