明顕山 祐天寺

論説

歌舞伎・浄瑠璃と仏教(八)

地蔵菩薩(その2)

祐天寺研究室 浅野祥子

地蔵菩薩は釈迦入滅後から弥勒菩薩が悟りを開いて現れるまでの、56億7千万年の間の無仏の世界の民衆を救う菩薩で、人々に最も親しまれてきた菩薩です。
庶民信仰の世界では子供の僧の姿をした救済者として描かれ、地獄とこの世とを自由に往来して衆生を救う菩薩とされます。

六地蔵
六地蔵は六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人道、天道)のそれぞれをつかさどり、衆生を救うとされます。執り物も、地獄をつかさどる大定智悲地蔵(『覚禅抄』の例)は左手に錫杖、右手に宝珠というようにそれぞれ決まっています。今でも道ばたに6体の地蔵菩薩像が立っているのは、六地蔵の信仰により建立されたのです。

また、江戸六地蔵、浪花六地蔵というように、広い地域の6か所に6体の地蔵菩薩像を分けて祀り、地蔵盆などにそれらを巡って参拝することも行われたのです。

『お染久松』
大坂瓦町の油屋の娘お染と、丁稚久松は恋仲でした。しかし、当時は親の許さない恋愛は「不義密通」と呼ばれ、処罰されたのです。2人は恋の行方をはかなんで、宝永7年(1710)正月6日に心中しました。幼い者同士の死を憐れみ、この話は歌祭文(歌謡)に取り上げられ、さらにそこから多くの浄瑠璃・歌舞伎に仕立てられました。

『お染久松袂の白しぼり』
現在、お染久松物として最もよく上演されるのは、浄瑠璃の『染模様妹背門松』、『新版歌祭文』、鶴屋南北作の歌舞伎の『お染久松色読売』、清元の踊りの『道行浮土時』(お染)などですが、それらのもとであり、お染久松物の形式が整った最初の作品とされるのは『お染久松袂の白しぼり』です。

これは紀海音作の浄瑠璃で、正徳元年(1711)4月、大坂豊竹座で初演されました。

この作品の中に2人が浪花六地蔵巡りをする場面があります。恋愛をしていると言っても、おぼこ娘と素丁稚というまだまだ幼い子供同士だった2人が、没後は子供の救済者である地蔵菩薩の庇護下に置かれることを暗示するかのようです。

大坂瓦町の油屋の娘お染は、美男の丁稚久松と深い仲になっていましたが、父親の指図でお染に縁談が決まりました。
ある日、婚礼の衣装を選びに呉服店に行くお染に、2人の仲を心配する母親は「駆け落ちするように」との気持ちで大金を渡します。しかし、母の気持ちに気付かないお染は、久松の機嫌をとるために小袖を買い与え、また女中たちにも物を買い与えて、その大切な金を使ってしまうのでした。

帰り道に久松の伯父の法印のところへ寄った2人は、金が母の心遣いだったことを伯母から知らされますが、もはやあとのまつりでした。

油屋に戻ったお染の周辺で、縁談はどんどん進んでいきます。年が明けて年賀に来た法印に、お染の母はお染の縁談の相性が悪いと言って壊してくれと頼みますが、甥の久松の不義を恥じる法印は、かえって良縁であると占います。また、お染の父親は久松の美しい小袖を見ると、盗みであろうと久松を打ち、暗に娘との不義を責めます。

同じ屋根の下に住んでいても結ばれず、お染の縁談は着実に進んでいきます。窮地に追い込まれた久松は、うたたねの間にお染と浪花六地蔵巡りをする夢を見ます。

夢に見て現に逢ふて。幻に立つ甲斐。も無き妹背鳥。つがい離れて。
あとやさき。しやれた。振り袖加賀笠に紅絹のくけ紐。かかえ帯わか紫のお染こそ。うはのそらなる。  薄化粧。
…略…
ままならぬ身をかこちぐさ。露よ。
時雨よ染様と泣いつ笑ふつ取り乱し思い直して顔と顔。色の火桜。燃え出て頬焼地蔵の慈悲あつく。すぐに急げば天王寺。五番の札所是とかや。逆縁ながら六番は。遙か乾の法善寺。是より拝し奉る。
南無帰妙頂来地蔵尊。哀れ拙き我らかな知らずばさてもやみぬべき。
すでに此理をわきまえて後世をば恐れぬはかなさよ。娑婆にて慈悲の名号を一度唱ふる功力にて。業に引かるる魂魄を導き給へ地蔵尊。

第1番札所の国分寺から始まり、第6番法善寺まで、美しいお染の姿や景色などを織り込みながら2人の道行きが進んでいきます。最後に行った生玉で自分たちが心中して死ぬ様子をうたう祭文を耳にはさんだ久松は、驚いて目をさまします。すると不思議なことに、お染もまた同じ夢を見ていたのでした。
お染は促されて、婚約した家の宴席に招かれて出ていきますが、その留守に、久松の父である百姓の久作がやって来ました。久作は、自分は隠居したい、お前に嫁も決めてあるからと、奉公をやめて家に帰るよう説きます。実は法印にお染との不義の事情を聞いてやってきたのでした。

父親の慈愛に満ちた説得に久松も1度は承諾し、荷物をまとめてあとから行くと、父を送り出します。しかし、お染のことを思い切れない久松は、死のうと蔵に入ります。するともう1度お染の顔が見たいと願う久松の気持ちが通じたのか、お染が宴席から駆け戻ってきました。親の許さぬうちに一緒に死ねば、私は主殺しになってしまうという久松の言葉により、2人は蔵の内と外とで別々に同時に命を絶つのでした。

祐天ファミリー24号(H11/12/1)掲載

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