明顕山 祐天寺

論説

歌舞伎・浄瑠璃と仏教(九)

地蔵菩薩(その3)

祐天寺研究室 浅野祥子

地蔵菩薩は釈迦入滅後から弥勒菩薩が悟りを開いて現れるまでの、56億7千万年の間の無仏の世界の民衆を救う菩薩で、人々に最も親しまれてきた菩薩です。
庶民信仰の世界では子供の僧の姿をした救済者として描かれ、地獄とこの世とを自由に往来して衆生を救う菩薩とされます。

『苅萱道心筑紫搴』
並木宗輔・並木丈助の合作で、享保20年(1735)に大坂豊竹座で初演された人形浄瑠璃です。のちに歌舞伎にも取り入れられました。

筑前の城主、加藤左衛門尉繁氏は、盃の中へ桜の蕾が散ったのを見、また奥方牧の方と妾千鳥のうたたねの間に、両者の黒髪が逆立って蛇と化し、食い合う有様を見て発心し、高野山に登って出家します。

繁氏が突然姿を消したあと、加藤家では豊前の大内家に難題を持ち込まれ苦難します。奥方は繁氏の行方を探し、高野山にいるという噂を聞いて旅に出ました。若君石動丸と供の者1人を連れての道中に大内家の差し向けた追っ手を逃れて、ようやく高野山の麓の学文路の宿まで来ました。

しかし、高野山は古くから女人禁制の霊地です。奥方は麓でとどまり、石動丸1人が顔も見知らぬ父を訪ねて山を登ることになりました。慣れぬ旅で病気になった母を気遣いつつも、石動丸は山上へ向かいます。

やっと登った山上で、石動丸が「今道心(最近出家したばかりの者)を知りませんか」と問い掛けた僧侶は、苅萱道心と名を改めた父繁氏その人でした。

コハ興がる(おかしな)少人(子供)かな。九百九十の寺々。毎日入り来る初発心(発心出家したばかりの者)。昨日剃ったも今道心。一昨日剃ったも今道心左様に訪ね給ひては知れ難し。俗の時の名を言うて。尋ねられよと身の上の事とも。知らず。仰せある。さればとよ尋ぬるは自らが父上。二つの年別れし故お顔も見知らず。元は筑紫松浦党。加藤左衛門繁氏様と。
言ふより扨は我が子かと。取縋らんとしたりしが待て暫し。佛前にて誓ひを立てたる恩愛妹背。爰ぞと思ひよそ  しく。ムウ年も行かぬに遙々と。慕ひ来る志。誠の父が聞かれなば嘸嬉しくも懐かしく。飛付く程に思されなんさりながら。此山の掟にて。縦ひめぐり逢うたりとて。名乗り合ふ事かつふつ(絶対に)叶はず。はや  国へ帰り。母御を大事にかしづくが。
又一つの孝行と。いひ教ゆれば。イヤナウ我が国は大内といふ者攻悩し。母様諸共この山の麓まで参りしが。悲しき事は母様が路の疲れに煩うて。命の内に只一目父に逢はせてくれよとのお嘆き。情と思うて御在所。御存知ならば教へてと。
目に持つ涙はらと。抑へ兼ねたる有様に。我こそと名乗って聞かそか。いや勿体ない師の御坊の戒め。と言うてはるばる来たものを。知らず顔見ぬ顔が。どうなるものぞやと。胸にせきくる血の涙。
こたへ兼ねて思はずもワッと。ばかりに泣き給ふ。石動丸は目賢く左程に嘆き給ふのは。もし父上ではあらざるや。早く名乗りて給はれと。縋り嘆かせ給ふにぞ。乱れ心の折ふしに。

父と悟って縋られても、苅萱は遁世の誓いを忘れず、父子の名乗りをしませんでした。促されて泣きながら下山する石動丸を待っていたものは、すでに事切れた母の亡骸でした。野辺送りを済ませたのち、石動丸は苅萱道心の弟子となって出家し、朝夕勤行の日々を送ったのでした。

『苅萱道心筑紫搴』に描かれる2人の様子はここまでです。しかしこの話は江戸時代、広く民衆に好まれてさまざまな教導書が作られました。『苅萱道心行状記』〔寛延2年(1749)刊行〕もその1つです。これによってその後の2人の様子を見てみましょう。

高野山は真言宗の本山と言っても阿弥陀仏を本尊とする堂もあり、苅萱父子は念仏して年月を過ごしました。34年が経ち、正治元年(1199)8月15日、苅萱は夢のお告げに従って信州善光寺に詣で、その近くに庵を結んで近村の者を教化しながら念仏修行を行うこととなりました。唱名のかたわら、地蔵菩薩を刻しました。やがて月日が経ち、苅萱の往生を奇瑞で知った石動丸改め道念は、父のいた庵に赴いてやはり地蔵菩薩を刻みながら修行を行い、父の刻んだ像とともに安置しました。人々はこれを親子地蔵と呼んだのでした。道念も同庵で没しましたが、その折には紫雲がたなびき、極楽往生の瑞相が現れました。庵の跡は西光寺となり、のちも信仰を集めたのでした。

『善光寺道名所図会』〔嘉永2年(1849)刊行〕では、苅萱は地蔵菩薩の化身であったとも書かれています。苅萱と地蔵菩薩との関係は、浄瑠璃でははっきりと描かれていませんが、苅萱・石動丸の話が有名になると親子地蔵も広く信仰され、善光寺に参った人は必ずお参りをする場所となっていったようです。

祐天ファミリー25号(H12/2/15)掲載

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