明顕山 祐天寺

論説

歌舞伎・浄瑠璃と仏教(十一)

地蔵菩薩(その5)

祐天寺研究室 浅野祥子

地蔵菩薩は釈迦入滅後から弥勒菩薩が悟りを開いて現れるまでの、56億7千万年の間の無仏の世界の民衆を救う菩薩で、人々に最も親しまれてきた菩薩です。
庶民信仰の世界では子供の僧の姿をした救済者として描かれ、地獄とこの世とを自由に往来して衆生を救う菩薩とされます。

壬生地蔵
壬生地蔵は正暦元年(990)定朝によって作られたと伝えられる地蔵菩薩像で、壬生寺では毎年春に20日間の大念仏会を催しています。このときに行われる乱行念仏(狂言)は壬生狂言と呼ばれて嵯峨清涼寺、千本閻魔堂(引接寺)の念仏会とともに有名なものです。

『傾城壬生大念仏』
近松門左衛門作の歌舞伎『傾城壬生大念仏』は、元禄15年(1702)正月28日から京都都万太夫座で初演されました。京都壬生地蔵の開帳が同年の3月18日から行われることになっており、これを当て込んだ企画です。公演は大当たりであったようです。

『傾城壬生大念仏』は長く上演されませんでしたが、近年になって近松座によりその一部分が舞台にかけられました。作品はいささか古風な入り組んだものですが、あらすじは次のようなものです。

備後高遠家の若殿民弥が島原の傾城道芝に迷い、行方知れずとなっている間に、継母とその弟大蔵がお家を乗っ取ろうと企みます。そして民弥の妹瑠璃姫が、実母の追善のために壬生狂言を邸で行う日に、姫を暗殺しようという計画が練られます。忠臣三宅彦六がこれを知り、瑠璃姫と家宝の地蔵菩薩像を守って姿を隠します。

一方、民弥の許嫁かつ姫の邸に、大蔵の兄が民弥に扮して入り込んでいます。そこに落魄した民弥が糟買いとなって迷い込んできて、傾城買いの話をするうち、かつ姫はこれが本当の民弥だと知ります。この他愛もない傾城買いの話を色気をもってするところに、初演の坂田籐十郎の魅力が発揮されたと伝えられます。

争乱の中で再び民弥は流浪します。そして鞆の遊郭で遊女となっている道芝と再会します。ところが家臣彦六が調達した金は、金を持っていた禿の小伝を殺して得た金だとわかります。彦六を責める民弥ですが、小伝は実は彦六の娘だったとわかります。彦六は、そうと知らずに我が娘を主君のために殺したことになり、皆その犠牲と奇縁に感動するのでした。

やがて、彦六の妻が渡し船の船頭に娘の死を聞いて嘆くという『隅田川』に似た趣向があったのち、善悪入り乱れての戦いがあり、悪人たちは敗れ去ります。最後に、小伝は壬生寺の地蔵菩薩の身代わりによって生きていたことがわかり、極楽になぞらえた開帳のありさまを描いて幕となります。

以下に渡し船の場の中の開帳の場から原文を引用しておきましょう。女巡礼と船頭の問答です。

「いや、娘に離れました故、子が菩提のために巡礼しまする。向かふに大勢念仏を申しますが、何故でござんす」
「されば、あれに付ては哀れな事がござる。此十日斗以前の事でござりました。盗人が十一二な娘の子の死骸を此処へ擔げて参り、土を掘って埋めふと致したを、所の者が見付たれば棄てゝ逃げましたを、皆集まりまして、娘の死骸を土中へ築込め、一七日の念仏を申ます」

女巡礼聞、「其國里はいづくの者でござったぞ」古今節  それは備後の人成が、養子の親に欺されて、廓に賣られ玉鉾の、さもあらけなき武士の、人の寶に目をかけて、よこせよこせと打つ刀、只一打に情なや
「何とやら思ひ當る話じゃ。其子の親の名は何と申た」節 今は嘆きて返らねど、語るも云ふも哀れやな、いたはしや幼いの、國里はいづく、いかなる所ぞや、父は三宅の何某、名は彦六と申也、我が子と知らでおとましや、殺して跡の悔み事、母は狂女の如くにて、苦しげ成し聲音をし、我が子返しゃれ、こちの人、涙にくれて同音に、手に水晶の数珠持て、なまいだなまいだ、なまみだなまみだ、南無阿弥陀南無阿弥陀」と涙ながら語れば、
(中略)
かくて都壬生の地蔵菩薩開帳あれば、皆々参詣有。堂にて対面有所に、内陣より禿の小伝走り出れば、人々「是は。そちは死したが、迷ふて出たか。」小伝聞、「わしは殺さるゝと思ひましたが、御出家がござって、此の厨子を下され、此所へ連れてござりました」と言へば、民弥押開き見給へば、家の御宝一寸八分の地蔵菩薩、御胸より血流れ出る。「扨は此子が身替りに立給ふか」と、皆々伏拝み悦び給ふ。扨開帳の法会様々、極楽の體をまなび給ふ。仏法繁盛有難し有難し。

祐天ファミリー28号(H12/9/1)掲載

TOP