明顕山 祐天寺

論説

歌舞伎・浄瑠璃と仏教_(十四)※正しくは十五

高僧

祐天寺研究室 浅野祥子

 歌舞伎・浄瑠璃と仏教を考えるうえで、高僧を取り上げた作品も目に付きます。仏教を民間に広めるうえで大きな役割を果たした高僧の業績やその逸話は、芝居に合うように脚色されて作品の上に表れています。

◆良弁僧正
良弁僧正〔持統3年(689)~宝亀4年(773)〕は奈良時代の華厳宗の僧侶です。天平5年(733)頃、羅索院(現在の東大寺三月堂)を開くなど東大寺建立に力を尽くし、初代別当を勤めました。幼少のとき、鷲にさらわれてしまい、悲しんだ母は30年以上もわが子を探し歩いたという『元亨釈書』などの書物に残る逸話が有名です。親子の出会いのきっかけは著者によっていろいろな説が記されており、老婆が杉に貼り置いた手紙によって出会えたというのは、今回ご紹介する『二月堂良弁杉由来』の作者の創作です。
良弁僧正はまた、江戸時代に多くの参詣者で栄えた神奈川県の大山の開基とされています。

『二月堂良弁杉由来(三拾三所花野山)』
明治20年(1887)2月、大阪彦六座で初演されました。三味線の名人、豊沢団平の作曲。詞は一説に、某文士の作に団平の妻加古千賀が加筆したものと伝えられています。
菅家の臣下水無瀬左近元治は早くに亡くなりますが、残された奥方渚の方は志賀の里に住まいつつ、一子光丸を大切に守り育てています。

ところがある日茶摘みを見物しているうちに、飛来した大鷲に赤子をさらわれてしまいます。
絶望のあまり気がおかしくなりながらも子どもの行方を求めて諸国を遍歴した渚の方は30年後、正気に戻りますが子ども依然と見つかりません。
奈良に至った渚の方は、東大寺の高僧良弁僧正は幼いとき鷲にさらわれながら助かった方だという噂を耳にし、もしや僧正がわが子ではという気持ちをこ込めて二月堂の大杉に、鷲に取られた子を尋ねる手紙を貼り置きます。

一方、良弁僧正は自分が幼いとき鷲に捕らわれ、大杉の梢で今にも餌食にされそうだったところを師の僧正に救っていただいたという縁のその大杉に、顔も名も知らぬ父母にただ一度でも会いたいという思いを込めて毎日参拝しています。父母を恋い慕う僧正の述懐は胸を打つ部分です。

 

人界の生を受け、成長なすも父母の恩、それにつけてもわが身の上。いづくの誰が胤なるか、稚き時鷲に捕はれ、この大木の梢の空、小枝にとゞまり危ふくも、既に悪鳥の餌食にと、引裂かれなんその折から、師の僧正の御情をうけ、命助かりあまつさへ忝くも内裏にて、御局方の助力を以て成人なせしも師の厚恩。月日も既に三十歳の今に父母ましますか。便りも聞かず音信も、なきはこの世にましまさぬ、父母なれば未来のため、この世におはさば息災延命。なにとぞ仏陀の冥助(蔭の助け)にて、一たび逢はせたび給へと、年頃日頃祈れども、そよとの風の便りさへ、涙の乾く隙もなく、烏に半哺の孝(雛だった頃に養ってくれた親に、成長してから 食物を運ぶ)もあり、鳩に三枝の礼(親よりも3段低い枝にとまる)もある。われは闇路の魂よばひ、生れぬ先の父母も、空なつかしさ、はかなさよ

 

良弁僧正は杉の根もとの手紙を見て驚き、その貼り主を呼び寄せると、非人のなりをした汚い老婆でした。

しかし、その老婆から、さらわれた赤子に如意輪観音の入った守りを付けておいたということを聞き、自分の所持する守りと比べ見て、さては実の母であったかと気付きます。親子は奇しき対面を喜び、僧正は身なりを恥じて遠慮する母を、自分の美しい輿に乗せて連れていきます。浄瑠璃は孝を褒め、仏を讃える美しい詞章で作品を締めくくります。

労はり、かしづき僧正は御堂を見返り伏し拝み、杉の梢も雨露の恩。恩と情の親心。恵みも深き二月堂。日頃の憂きは木の元に、悦び栄う孝の道、顕れ出づる弥陀の慈悲。めぐりめぐりて末の世に南都大仏乾の方、子安の神と名に高き、今にその名ぞかんばしき

「祐天ファミリー」32号(H13/6/20)掲載

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