寛永4年(1627)~宝永2年(1705)
5代将軍綱吉が出した悪名高い「生類憐みの令」は、陰に桂昌院の口入れがあったと言われています。また、綱吉の学問好きや神社仏閣の相次ぐ建立も桂昌院の影響であり、綱吉の行動の裏には常に生母桂昌院の姿が見え隠れしていたのです。
家光の第4子であった綱吉が将軍となれたのが幸運なら、母・桂昌院が家光の側室となったのも幸運でした。もとは京の八百屋である仁左衛門の娘として生まれた桂昌院は、名を光子と言います。仁左衛門の死去後、母に伴われて公家二条家の家司本庄太郎兵衛宗正(宗利)の屋敷に奉公に上がり、のちに母が宗正の子を生むと、本庄家の養女となりました。同じ公家の六条宰相有純の娘でやはり家光の側室であったお万の方の縁故により、桂昌院は江戸城本丸奥勤めとなり、次いで春日の局の計らいで家光の寵愛を受けるに至ったのです。桂昌院には1つの逸話があります。綱吉が元服を迎えた頃、今で言う脚気、当時は江戸煩いと呼ばれる病気にかかり、占い師の見立てで練馬に御殿を造って転地療養をしました。しかし病状はいっこうに良くならず、主治医に毎朝素足で土を踏むことを勧められると、今度は桂昌院は御殿の庭に尾張から取り寄せた大根の種を蒔かせます。大根はうまく成長し、それを珍しがった綱吉は毎朝その畑に足を向けたので病気は回復したというものです。これが、のちに練馬大根として名物となるのですが、桂昌院のこの機転の良さと深い愛情を、おそらく春日の局は見抜いていたのでしょう。
慶安4年(1651)に家光が亡くなると、お玉の方と呼ばれていた桂昌院は剃髪し、桂昌院と名乗るようになります。信仰心が厚く、仏教に深く帰依した桂昌院は、多くの高僧のもとに説法を聴きに行きました。なかでも真言宗の僧侶であった亮賢には、幕府の祈願寺として護国寺を創建して彼をそこの開祖としたり、後住となった隆光にも護持院を与えています。また、祐天上人にも帰依することが深く、元禄12年(1699)の前代未聞の祐天上人の檀林住持への大抜擢も(元禄12年「祐天上人」参照)、桂昌院の意見が多大に影響していると言われています。東大寺の大仏殿再建の運動も支持し、寺社の建立や再建、寄進などは多数にのぼりました。行き過ぎの動物愛護精神は市民に多大なる迷惑を与えたとはいえ、「生類憐みの令」は殺生を禁じる仏教思想にのっとってのものでありました。ほかにも、類縁者の取り立てや栄進が目覚ましく、愛情が非常に豊かな女性だったとも伝えられています。
元禄15年(1702)には従一位にも叙され、宝永2年(1705)に亡くなるまで穏やかな晩年でした。芝増上寺に葬られた桂昌院の享年は79歳(一説に85歳)。臨終の際には当時小石川伝通院住職であった祐天上人にお十念を受け、安らかな最期だったそうです。