師檀通上人の示寂によって、同門の諸弟子たちとともに増上寺に戻った祐天上人は、さらに学問を深めていきました。浄土宗の学問は「九部修学」と言い、名目、頌義、選擇、小玄義、大玄義、文句、礼讃、論、無部の9部から成ります。1つの部に3年学び、過程を終了すると次の部に上がるのです。最後の無部は学問を究めた地位であり、この資格がなければ檀林の住職や紫衣地、別格寺の住職にはなれませんでした。
祐天上人は12歳で出家しましたので、順調に学問が進んでいれば館林善導寺で選擇部、飯沼弘経寺で論部、鎌倉光明寺で無部と推定され、40歳という年齢からすでに無部であったようです。
学問を終えると今度は学僧を指導する立場になりますが、その地位を示す方法として、「転席」というものがあります。増上寺では通常の檀林と同じ下読法問(天和3年「祐天上人」参照)に加えて上読法問(延宝3年「祐天上人」参照)がありました。上読法問席の中で一文字席は最上の席で、50僧が座りました。この50僧中、上座12僧を月行事あるいは月番と呼んだのです。この12人は毎月交代で増上寺全僧の統率の事務にあたりました。月行事の首座を学頭と呼びました。祐天上人は「輪下」あるいは「本席」で増上寺に帰山したと伝えられ、のちに記すように貞享3年(1686)に牛島(墨田区)に隠棲されたときにはまさに学頭になろうとしたときだったのです。
羽生村の累の夫、与右衛門(寛文12年「伝説」参照)は、過去の悪事が露見してまもなく出家し、西入(一説に西心)と名乗り存らえていましたが、延宝4年6月22日(一説に23日)逝去しました。累が死んだ事件の年、正保4年(1647)から30年後でした。『死霊解脱物語聞書』には、出家しても道心がないので功徳がなかったと書かれている与右衛門ですが、死の直前には7日前より死期を知って念仏し、仏を拝したことを人に語って往生したと伝えられています。