寛文年間(1661~1672)の末、江戸深川の伊勢屋作兵衛は隣家の火事で焼け出され、下総(茨城県)飯沼弘経寺の門前に住む忠兵衛という裕福な親戚を頼っていきました。やがて忠兵衛は病死し、子がないので作兵衛が養子となりました。作兵衛は養母に尽くして商売を繁盛させました。
その頃、故郷伊勢の作兵衛の両親が2人とも相次いで死んだので、作兵衛は伊勢に行って供養し、貧しい親戚にも扶助をして飯沼に帰ってきました。すると養母は、実子でない作兵衛が家を継ぐことにも心穏やかでなかったのが今また金を使われ、その憤りから重病となって死んでしまいました。懇ろに葬式を営みましたが、養母の怨霊は作兵衛の妻に憑いて苦しませました。
弘経寺にいた祐天上人はこれを聞いて哀れみ、作兵衛の家に行って名号を書写して妻の首にかけさせ、十念を授けました。寺に帰ってからも怨霊得脱のために念仏していると、ほどなく死霊は解脱して妻は正気になりました。延宝年間(1673~1680)の初めの頃のことでした。祐天上人の名号の利益の話としては、ごく初期のものです。
時を知らせるために撞く鐘のことで、もとは朝廷で貴族たちの集散の合図として、奈良時代に始まりました。江戸時代では2代将軍秀忠の頃に、本石町3丁目(日本橋室町3丁目)に掛けられて昼夜十二の時にそれぞれ撞かれたのが最初です。鐘はまず人々の注意を促すために捨鐘として3回撞かれたあと、昼夜12時に9つ、それから1刻(2時間)ごとに8つ、7つ……と撞かれます。のちに、浅草・本所・上野・芝・市谷・目白などの市内各地に設置されました。天英院(6代将軍家宣室)より寄進された祐天寺の梵鐘も、天保3年(1738)以降、時の鐘として活躍しています。