5月13日、檀通上人は、飯沼弘経寺住職から鎌倉光明寺へ転住となりました。祐天上人も随従して鎌倉に引き移りました。
ところが、所労の重なりからか、檀通上人はまもなく病に伏し、8月2日、遷化しました。祐天はじめ、弟子の悲嘆は大きなものでした。
鎌倉光明寺(天照山蓮華院)は、十八檀林のうちでも、第2位に位置する、格の高い寺院です。伝通院と並んで二枚紫衣が許され、これは大本山増上寺(港区芝)の三枚紫衣に次ぐものです。この寺の住持を勤めたあとに増上寺住職になることも多いのでした。43世檀通上人のあとの住職たちの様子を見てみましょう。84世貞端までのうち、44世詮雄、50世白玄、53世詮察、56世冏鑑、58世利天、62世覚螢、71世隆善、72世満空、76世念海、78世在禅、79世輿海、81世瞬従の12人が光明寺住職のあとに大本山増上寺の方丈となっています。また、京都の本山、知恩院の住職になった者が、13人います。これを考えると、檀通上人は浄土宗僧侶としての栄達の途中で、病に倒れたことがわかります。
檀通上人はいよいよ臨終というとき、弟子たちに向かい「われ、ただ今臨終なり。同音に念仏せよ」と言い、皆の念仏の声の中で息を引き取ったと言われます。山上で荼毘にしたところ、異香が漂い、遺骨はことごとく舎利となり、その中に念珠も50~60粒混じっていたと伝えられます。
病中、祐天上人は1人祈祷堂にこもり、一心に回復を祈っていましたが、その効験なく、さらに一層力を加えて祈りました。すると不思議なことに、青天白日の空がかき曇り、大粒の雨が降ってきたのでした。
祐天上人が、師匠檀通上人に疎まれて勘当を受けたままだったと記述する『祐天大僧正御伝記』では、祐天上人が病床の檀通上人を見舞い、勘当を解いてもらったということになっています。
寛文12年(1672)、下総(茨城県)羽生村の嘉左衛門という名主は、みをという女に打ち込み、本妻が病気で死ぬときも家に帰りませんでした。本妻の死後、すぐにみをを家に入れましたが、本妻の怨霊が夫婦に取り憑き、口を塞いでものも言わさず、2人とも大病になりました。子の彦右衛門は同村で霊験を現した(寛文12年「伝説」参照)祐天上人に回向を頼みました。祐天上人は夫婦に念仏を命じ、2人がそれに従うと、怨霊は得脱して2人は健やかになりました。延宝2年6月15日のことでした。
じゃんがら念仏とは、旧暦のお盆の頃、新盆の家々で踊られる念仏踊りのことを言います。念仏踊りは、踊り念仏・踊躍念仏とも言い、踊りながら念仏を称える時宗特有の行儀ですが、そのもとは平安末期に空也上人が行ったものが始まりと言われています。
いわき市のじゃんがら念仏の由来については諸説ありますが、祐天上人が故郷のいわきで念仏信仰を広めるため始めたものがもととなっているという説があります。新盆を迎える家の庭先で15人程度の青年たちが、腰太鼓を持った数人を中心にし、鉦を持った数人がそれを囲んで独特の詞に節を付けて歌いながら激しく踊ります。それが終わると、施主は彼らにお酒や食事などを饗応します。