延宝5年(1677)~宝永元年(1704)
鶴姫は徳川綱吉の子として延宝5年4月8日、白山御殿(綱吉の下屋敷)に生まれました。母は愛妾お伝の方(瑞春院。元禄5年「人物」参照)です。延宝7年(1679)に母を同じくする弟の徳松が生まれますが5歳で早世してしまったため、鶴姫は綱吉のただ1人の実子として大切に育てられました。天和元年(1681)7月、御三家の1つ紀伊家の徳川綱教との縁組みが決まり、結納が交わされました。鶴姫側からの結納は小袖20、帯6条、銀500枚、肴20種、御樽(酒樽)20荷でした。貞享2年(1685)2月22日、無事に輿入れが行われました。
当時、5代将軍綱吉は絶対的な権力を握っていましたが、徳松を亡くして以来、世継ぎに恵まれず、次々と養女を迎えてその寂しさを紛らわしていました。将軍に世継ぎがない場合、御三家から迎えるというきまりにより、御三家は、次の将軍がどの家から出るかを固唾を呑んで見守っていたのです。尾張家で2人の養女(喜知姫、松姫)を差し出したのも、その思惑があってのことと思われます。
そのような中で将軍家の姫をめとった紀伊家では、綱教が次期将軍になる可能性が高まったと、大変な喜びようでした。このうえは2人の絆を固めようと、世子誕生にも期待がかかりました。しかし残念なことに、鶴姫に子供は生まれませんでした。
鶴姫は、祐天上人への信仰を持っていました。姫には祖母にあたる桂昌院、またその桂昌院の侍尼、清薫尼の影響もあったでしょう。また、鶴姫付きの局、陽華院は、祐海(祐天の甥で、のちに祐天寺2世となる)の養母の縁故の者だった関係で、祐海を一時期預かっていました。そして、祐天上人の牛島時代からの信者でした。鶴姫の母親であるお伝の方からして、「長悦の像」(のちにこの像は祐海上人に寄贈されました)と呼ぶ祐天上人の像を造りったくらいです。このように、鶴姫の周りにいる祐天上人を信ずる人々の影響で鶴姫も信仰を持ったと考えられます。また、鶴姫自身の虚弱な体質も、仏菩薩に縋りたいという心を勧めたでしょう。
鶴姫が病弱だったという記述は『隆光僧正日記』に見えます。元禄14年(1701)正月の条に「元来月水も不順で1年半から2年も止まることがあった」と記載があります。
祐天寺には鶴姫幼少時の袈裟が伝わります。紺地、金糸の唐草菊文様を縫い取ったその袈裟には、背の裏地に祐天名号が書かれてあり、幼時病弱だった鶴姫に祐天上人がお着せになったと伝えています。
祐天上人の取り次ぎにより、飯沼弘経寺末の下総(茨城県)豊田郡霊山寺には鶴姫所持の「御守本尊阿弥陀三尊厨子入御紋打敷幡」が納められています。これも、姫と祐天上人との関係を物語る史料です。
鶴姫は、宝永元年4月12日逝去し、増上寺に葬られました。28歳の若さでした。法名は、明信院殿澄誉恵願光輝大姉と言います。お形見拝領として祐海は、鶴姫自筆の阿弥陀三尊画像をたまわりました。祐天上人が讃の代わりに十念を書いているその絵は、当寺に今も伝わり、姫の熱心な浄土信仰を表しています。