1月、勝雄は「祐天上人二百三十三回御遠忌のための寄付勧募に関する趣意書」を檀信徒へ送付しました。この趣意書から、4月14~17日(実際は14~16日の3日間)に祐天上人二百三十三回遠忌大法要と勝雄の晋山式を行い、その後の5か年間で寺内の営繕修理を行うという予定を立てたことがわかります。
営繕修理は廊下の増築、電灯の新設、本堂の荘厳および整備、阿弥陀堂・地蔵堂の修理および整備、納骨堂の設備、宝物拝観所の整備、本堂樋の修理、線香焼場の設備、賽銭箱(4か所)の新設、販売所の設備、鰐口の新設、天水桶(5か所)の新設、境内の垣根・藤棚・塀・下駄箱・下足籠・掲示伝道板・かさね塚の垣根・井戸(3か所)の修理、境内地の清掃および整備を行う予定だったようです。これらのうち、遠忌法要までに終了したのは表門両側の木造塀の修理、表門前の御影石駒寄せと天水桶の設置、廊下の増築でした。
勝雄は3月15日付けで大僧都に、同月25日付けで准讃教に叙任されました。
3月、勝雄は祐天寺の『寶物目録帳』と『什物目録帳』を作成しました。『寶物目録帳』は経典や名号軸、絵画などの目録です。『什物目録帳』には本堂の什物置き場の略図が付いており、什物の置き場所がひと目でわかるように工夫されています。
4月29日、勝雄と美壽子との間に次男の勝廣が誕生しました。
4月、江戸消防記念会の元五番組より祐天上人二百三十三回遠忌記念として、前住職の藤木随教(祐天寺19世)の名号付き纏額が奉納されました。この額を製作したのは浅草(台東区)の福善堂です。
4月14日、前日までの雨が上がり桜花の爛漫と咲き乱れる中、勝雄の晋山式ならびに祐天上人二百三十三回遠忌記念の大法要が執り行われました。
まず、祐天寺の表門が閉められ、檀家総代の島崎家より練り供養の行列が出発しました。この日に江戸消防記念会から奉納される賽銭箱を乗せた牛車が先頭を務め、裃姿の寺侍と、100人余りの稚児、随喜僧たちのあとに勝雄が続き、祐天寺駅前を通って商店街と駒沢通りを練り歩きました。勝雄は祐天寺表門にて開門の儀式を済ませると、石工の加賀寅之助より奉納された大香炉の後ろに回向柱を建てて回向しました。
遠忌大法要は増上寺82世椎尾辨匡大僧正の導師のもと、祐天寺本堂にて盛大に執り行われました。そのとき、本堂はもとより境内にまで檀信徒や一般の参詣人が山を成すほどの賑わいだったそうです。
また、この日に勝雄は本尊祐天上人坐像の胎内に記念の木札を奉納しました。木札には勝雄の書写した祐天名号のほか、役僧として祐天寺執事長の石上教恩、執事の本多貞俊と野呂幸進、伊藤圓戒の名も書かれています。
翌15日と16日には「祐天上人御縁日大祭大護摩修行」や「御弟子得度式」、寺宝の公開などが行われ、さまざまな余興も催されました。14~16日の昼夜3日間に延べ20万人もの参詣者が訪れたと伝えられています。
4月15日、前年の暮れから結成準備を進めていた祐天講が発足しました。祐天講は祐天上人の遺徳を信仰し、その遺徳を全国に普及・宣揚することを目的としており、春秋の大祭の実施、毎月15日の縁日祭の開催、祐天上人に関する宣伝(説教用冊子の発行、御詠歌・和讃の普及など)、お守り札・祈祷札・おみくじの頒布、供物や線香・ロウソクの供養、大祭演芸・余興の実施などに関わりました。
当時の祐天講には表通り祐天講、裏門通り祐天講、祐天寺清心講、正門地元祐天講、伊勢脇祐天講、友愛祐天講、目黒銀座祐天講、中二祐天講、油面祐天講、本田講、内山講、羽生講、千束町祐天講、静岡相良愛和講がありました。祐天講の講員には貞俊が講中への案内用としてまとめた『祐天上人之略傳』が配られました。本書には祐天上人の生涯や累解脱の話、名号のさまざまな利益話、子育地蔵尊の縁起などが書かれていました。
7月24日、亀戸祐天堂(江東区)の由来を記した高札が、宮石傳蔵によって再建されました。
亀戸近辺は空襲によって焼け野原となり、祐天堂はかろうじて焼け残ったものの、その高札や木棚、植木などが薪として持ち去られていました。祐天堂の由来を記した『東京亀戸境橋祐天堂名号石由来記録』も焼失していましたが(昭和20年「祐天寺」参照)、巻物を冊子にして町内に配布したうちの1冊がたまたま栃木県の知人宅から見付かったおかげで、再び高札を建てることができたそうです。
昭和30年(1955)7月24日には祐天堂の維持発展と史跡名勝の保存を願って祐天堂保存会が設立され、その際に傳蔵は由来記の巻物を再調製して奉納しました。
10月28日の早朝のことです。中根恒夫という人物が祐天寺を訪れ、「祐天上人の伝記が欲しい」と勝雄に頼みました。中根氏の話によると「昨晩は祐天寺の近くに住んでいる友人宅に泊まったところ、祐天上人の霊夢を感じたので訪れた」ということでした。ちょうどその頃、貞俊がまとめた『祐天上人正傳』の原稿ができ上がっていました。しかし、出版費用の当てがなく困っていたのです。勝雄がこのことを話すと、中根氏は「1万部を製本して上人前に奉納させていただき、多くの人々とともにそのご遺徳のご利益を蒙らせていただきたい」と答えました。こうして『祐天上人正傳』は製本されたのです。
本書には、祐天上人の生涯やさまざまな名号の利益話のほか、この年の4月に営まれた祐天上人二百三十三回遠忌大法要の様子なども記されています。
昭和20年(1945)4月15日の空襲で焼け野原となった大森地域一帯(大田区)の土地が、東京瓦斯株式会社によって大規模に買収され、ガスタンクが建設されることになりました。祐天寺は同じ一帯にあった祐天寺末堂の薬師堂跡地を、戦後復興のエネルギー政策の一環として寄与するため、手放さざるをえなくなります。薬師堂の境内にあった地蔵菩薩石像と歴代上人墓の一部が、薬師堂近くの厳正寺(大田区)に移されると、まもなくガスタンクが建設されました。
その後、威圧的なガスタンクの姿は地元住民の大きな悩みの種となり、住民たちの働き掛けによって同地域一帯は大田区に買い取られました。薬師堂跡地には現在、大森東中学校が建てられています。