明顕山 祐天寺

年表

昭和23年(1948年)

祐天寺

渡り廊下、開通

5月7日、勝雄は前年11月に完成した本堂と庫裡(現在の書院)を結ぶ渡り廊下(昭和22年「祐天寺」参照)の開通式を行いました。

参考文献
「自昭和廿一年九月より至昭和廿八年十二月三十一日 予定実施表」(巖谷勝雄)

随教、略伝と沿革を著す

7月15日、随教は『祐天大僧正略傳並沿革来由』を著しました。本書には祐天上人の略伝のほか、祐天寺の創建および建造物の概要についても書かれています。

参考文献
『祐天大僧正略傳並沿革来由』(藤木随教、1948年)

勝雄、祐天寺住職を拝命

10月19日、勝雄は昭和10年(1935)10月から住職を勤めていた宇都宮光琳寺(栃木県宇都宮市)を退山し、祐天寺住職任命の辞令を受け取りました。また、同日、紫衣の着用を許可されました。

これ以前の10月のある夜のことです。当時は戦後の電力不足によりたびたび停電していました。その日も停電したため、随教はロウソクの明かりのもとで勝雄の手を握り「あとを頼むぞ」と言って、勝雄に祐天寺を託したそうです。このとき勝雄は33歳でした。

勝雄は住職を拝命すると同時に祐天寺日曜教園の園長となり、戦争により休園していた日曜教園をこの年の11月1日から再開させます。

参考文献
『勇猛精進』

祐天講、結成準備

11月13日、勝雄は檀家総代の島崎七郎、島崎安忠、鏑木太郎とともに、祐天講結成に向けた打合せを行いました。

祐天講とは、宗派にかかわらず祐天上人の遺徳を信仰し、その遺徳を全国に普及・宣揚することを目的とした講中のことです。翌24年(1949)4月の祐天上人二百三十三回遠忌大祭日に結成され、現在に至っています。

参考文献
「自昭和廿一年九月より至昭和廿八年十二月三十一日 予定実施表」(巖谷勝雄)、「祐天上人第二百五十回遠忌大祭実施要領計画

寺院

信宏、知恩院83世に

1月1日、岸信宏が知恩院83世となり、10月に晋山式が行われました。

第2次世界大戦後、知恩院は本派浄土宗に属していましたが、昭和36年(1961)の法然上人750年遠忌を機に浄土宗と本派浄土宗が合同したため、翌37年(1962)に信宏は初代浄土門主となります。師の知恩院在住期間は31年に及び、その間にビルマ国(現、ミャンマー)政府の招待により日本仏教徒を代表して仏紀2500年の式典へ参列したり、印度山日本寺建設の一環として建てられた宝筺印塔の落慶法要の導師を勤めたりしました。昭和54年(1979)に90歳で遷化しました。

参考文献
『浄土宗仏家人名事典 近代編』(大橋俊雄、東洋文化出版、1981年)
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