7月31日、瑞江泉福寺(江戸川区)より祐天寺に速達が届きました。それは祐天寺17世巖谷愍随の甥で泉福寺27世の田中慶典が、昭和20年(1945)3月24日に戦死していたことがわかったという報せでした。享年28歳でした。
翌23年(1948)5月15日に通夜、16日に葬儀が営まれ、巖谷勝雄(のちの祐天寺20世)が参列しました。
6月10日、勝雄のもとへ司法保護委員を務めて欲しいという話が持ち込まれ、引き受けることになりました。9月1日、勝雄は司法省より司法保護委員を命じられ、同日、目黒保護区に配属されました。これ以降、昭和26年(1951)9月まで同委員を務めます。
11月29日、随教は本堂と庫裡(現在の書院)をつなぐ渡り廊下の再建許可を、東京都に申請しました。
この渡り廊下は、戦時中に火災が発生しても双方の棟に延焼することがないようにと一時的に撤去したものですが、利便性を考慮して再建を決めました。翌23年1月30日に許可され、まもなく再建されました。