明顕山 祐天寺

年表

昭和21年(1946年)

祐天寺

吉田秋光、没

6月21日、日本画家の吉田秋光が59歳で亡くなりました。祐天寺には秋光作の「松」の屏風のほか、「芍薬」と「菖蒲」、「柿」の掛け軸が寄贈されています。「柿」の掛け軸の外箱には高田家より奉納されたことが書かれています。秋光は大正から昭和初期に掛けて、日本画および日本画壇の発展のために活躍した人物です。

参考文献
『20世紀日本人名事典』(日外アソシエーツ株式会社編集・発行、2004年)

死体遺棄事件、発生

9月17日の午前5時半頃、祐天寺の本堂前に、無地の軍衣を着せられ白木綿にくるまれた女の赤ちゃんの死体が置かれているのが見付かりました。

参考文献
『読売新聞』(1946年9月18日付)

正雄、結婚

12月20日、福田正雄(のちの祐天寺22世)が取手本願寺(茨城県取手市)28世本多貞俊の娘タミと結婚しました。正雄は大正11年(1922)3月27日に黒羽常念寺(栃木県大田原市)27世の福田大冏・マン夫妻の3男として生まれました。巖谷勝雄(のちの祐天寺20世)の実弟です。

昭和17年(1942)9月24日に学徒動員のため、規定より半年早く大正大学専門部仏教科を卒業し、宇都宮(栃木県宇都宮市)の東部第四十部隊に入営しました。字を書くことが得意であったことから、初めのうちは事務の手伝いをしていたそうです。その後、東京湾内に侵攻してきたアメリカ軍の潜水艦を攻撃する横須賀(神奈川県横須賀市)の陸軍重砲兵学校に転属し、そこで終戦を迎えました。

この年に本願寺の婿養子となった正雄は、同23年(1948)2月11日に本願寺29世となります。一方で、同22年(1947)6月から取手中学校の教諭となり、同57年(1982)に利根町立文小学校校長となって定年退職するまで教員を務めます。さらに、退職後は取手市立井野公民館館長や取手市教育委員会委員などを務め、地域教育の振興に尽力します。

また、若い頃より俳句への造詣が深く、昭和26年(1951)に、文人俳句の代表作家として知られる久保田万太郎らが創刊した俳誌『春燈』の同人となりました。そのほか小・中学校の校歌をはじめ、「祐天寺み魂まつり音頭」などの作詞も手掛けています。昭和62年(1987)12月1日から平成10年(1998)6月29日までは本願寺と祐天寺の住職を兼務しました。

参考文献
『私が作詞した校歌集』(本多正雄、2010年)
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