3月10日、東京大空襲により亀戸祐天堂(江東区。昭和17年「祐天寺」参照)の由来を記した『東京亀戸境橋祐天堂名号石由来記録』と、祐天上人名号軸(堂内の祐天上人名号石塔を採拓して軸装したもの)、そして古来より伝わる道具2箱が焼失しました。しかし、堂宇自体は焼失を免れ、空襲の最中に堂宇の前にうずくまっていた20~30人が命を救われたと言い伝えられています。
また、この空襲では駒込光源寺(文京区)の大観音も焼失しました。この大観音は元禄10年(1697)に長谷寺(奈良県桜井市)の十一面観音立像を勧請して模刻されたもので、宝永5年(1708)に小石川伝通院(文京区)17世を勤めていた祐天上人が点睛した像でした。
4月15日の午後10時頃、アメリカの戦闘機約200機が飛来し、品川・荏原・蒲田・大森・目黒・世田谷の各区と芝・麻布区の一部を襲いました。
焼夷弾と爆弾が投下されて大火災となり、目黒区内では唐ケ崎町、鷹番町、中目黒2~4丁目、上目黒5・8丁目、自由ケ丘、原町、清水町、洗足町、月光町、碑文谷3丁目、緑ケ丘各町が被害を受けました。17日に帝都防空本部から発表された目黒区の被害状況によると、死者19人、全焼家屋2、348戸、罹災者は約1万1、000人に及んだということです。
当時の祐天寺の住所は、この被害地域内にあたる中目黒3丁目でしたが、墓地の一部に焼け跡が見られただけで大きな被害は免れたようです。しかし、末堂の大森薬師堂(大田区。現在は廃堂。昭和24年「祐天寺」参照)は焼失してしまいました。
4月15日、末長増福寺(川崎市高津区)が空襲により焼失しました。しかし、同寺に祀られていた祐天上人ゆかりの「廻り地蔵」と呼ばれる地蔵尊は三芳村(埼玉県入間郡三芳町)を巡行中だったため、難を逃れました。
この地蔵尊は弘法大師の作と伝えられ、その昔、何者かに持ち出されていました。それから数百年が経ち、諸国遊行中の祐天上人が大坂に逗留していたとき、夢に地蔵尊が現れ「我は武州末長村増福寺に有つる地蔵也(中略)此所より二丁程先に商人の店あり、尋求て伴ひあれかし」と告げたことから、祐天上人は夢告のとおり店から地蔵尊を求めて増福寺へ届けました。
増福寺に地蔵尊が再来してから約80年が過ぎた天明5年(1785)、村で悪疫が流行しました。そのとき、この地蔵尊を病気の者たちに拝ませて祈願したところ、たちまち平癒したそうです。この噂が近隣の村々へ広まり、病人を抱えた家の者が地蔵尊を自宅に招くようになりました。これが廻り地蔵の始まりです。
地蔵尊は背負い紐付きの厨子に安置されて運ばれ、各村の世話人の家々を宿として巡行しました。昭和40年(1965)代までは川崎市内のほかに埼玉県入間郡の永井町、横浜市の子安、東京都の赤坂(港区)まで巡行していましたが、今では増福寺近辺の梶ヶ谷・有馬・馬絹のみを巡行しているそうです。
8月10日、巖谷勝雄(のちの祐天寺20世)が陸軍大尉に昇格しました。当時は習志野(千葉県習志野市)の軍隊に配属されており、内地で終戦を迎えます。そして10月10日に召集解除を受け、除隊しました。
10月11日、勝雄と美壽子の間に長男勝業(のちの祐天寺21世)が生まれました。結婚してからの美壽子は勝雄が所属する隊の配属地が替わるたびに、その駐屯地に近い親類寺院を転々としていました。初めは勝雄の実家で兄の福田孝雄が住職を勤める黒羽常念寺(栃木県大田原市)に身を寄せていましたが、勝雄の姉の山田俊子の嫁ぎ先である下小倉清泉寺(同県宇都宮市)に移り、そこでは栄養士の資格を生かして疎開児童たちの食事作りを手伝うなどしていたそうです。そして、勝雄の母マンの実家であり、勝雄が住持していた宇都宮光琳寺(同県宇都宮市)が産院に近いことから、そちらへ移って出産しました。
10月15日、勝雄は師範学校・中学校・高等女学校の修身科の教員免許を取得しました。修身とは旧学制下において道徳教育を行うために設けられていた教科です。修身はGHQ(連合国軍最高指令官総司令部)により国史・地理の教科とともに軍国主義教育と見なされ、この年に廃止されました。
3月13日、椎尾辨匡(「人物」参照)が増上寺82世となりました。椎尾大僧正は昭和46年(1971)に遷化する直前まで宗門の興隆のために奔走し、また、増上寺大殿の復興にも尽力しました。
3月15日、知恩院82世となった望月信亨大僧正の晋山式が行われました。望月大僧正はその生涯を仏教学の研究に捧げ、『法然上人全集』『佛教大年表』『大日本佛教全書』『佛教大辞典』など、この分野の研究には欠かせない多数の著書・編さん書を出版しました。
望月大僧正は昭和17年(1942)に金戒光明寺(京都市左京区)山内に仏教文化研究所を設立し、自ら所長を務めます。昭和21年(1946)9月には知恩院山内に研究所を移し、なお一層の宗門文化興隆に努めました。昭和22年(1947)には日本学士院会員に選ばれますが、翌23年(1948)7月13日に78歳で遷化しました。
明治9年(1876)~昭和46年(1971)
椎尾辨匡は明治・大正・昭和の時代を通して、「宗教生活を送ることが本当に生きることになる」と主張し、「共生」を提唱した高僧です。師は名古屋市真宗高田派円福寺住職椎尾順位の5男として生を受け、晩年の講話でも真宗の節を付けたご文を長々と歌われたというほど、母親に幼少期から訓導を受けていたそうです。13歳のときに名古屋市の浄土宗瑞宝寺にて得度しますが、これは自らの意志であり、「真宗は真宗教義を徹底することがあるので、自由に研究のできる浄土宗を選んだ」と語っています。明治35年(1902)に東京帝国大学(現、東京大学)哲学科に入学。卒業時の口述試問ではその受け答えが微に入り細を穿ったものだったため、成績優秀につき銀時計を下賜されました。大学の卒業論文を書いた1か月間は、机に向かって書いては居眠りをし、起きてはまた書くという生活をし、その後も師の睡眠時間は1日3~4時間であったそうです。
卒業するとすぐに宗教大学で教鞭を執りましたが、辨匡師はノートを持たず空で講義をされました。明治40年(1907)には浄土宗教学部長に就任。このとき、それ以前は50年ごとに下賜されていた法然上人に対する大師号を、明治44年(1911)に迎える法然上人700年大遠忌のときにも、明治天皇から下賜いただけるように担当者として交渉にあたりました。当時の内閣では「大師号などは1人につき1つだけ下がる」と決議していましたが、明治天皇はそれを翻して法然上人に「明照大師」という号を下賜くださったのでした。
また、辨匡師は大正6年(1917)に著書『安心生活』を発表。すると人心の危機を感じていた男爵の福原俊丸がこれを読み、師に教えを請い、その講述が大正9年(1920)に『文化の権威』としてまとめられました。これが師を社会運動に邁進させるきっかけになったようです。日清・日露戦争さらには第1次世界大戦が勃発するという世情にあって、「日本という国家を考えたときに、何によって立つか。それは経済でも武力でもなく、知である。日本の文化はインド東洋文化の宝庫であり、東西文明の融合にその使命があり、それが自ら立ち、他を利益することになる」と主張しました。この思想が共生運動に昇華・発展していくのです。
共生とは「宗教生活と実生活の融合であり、縁によって生かされている自分を自覚することによって、人生を充実させていく生き方を説いたもの」と言えましょう。辨匡師は「食事はゆっくりよく噛め」と説いたと言われます。これはよく噛むことによって食べ過ぎることがないという、自分の体と食べ物の命の両方を思いやった言葉なのです。
社会運動のリーダーとなった辨匡師は、「普通選挙法」制定後の最初の選挙となった昭和3年(1928)の総選挙に中立の立場で立候補して当選し、仏教者として国政で3期にわたって活躍しました。しかし昭和17年(1942)の選挙が翼賛選挙となり、甥との論議の末に立候補を辞退します。この議員在職中の昭和11年(1936)には大正大学学長に就任し、昭和17年と戦後の昭和27年(1952)からの2期を合わせて3度学長を務めました。特に昭和27年は大学の校舎・校地の大半が売却の危機にさらされていましたが、設立宗派に依存する大学の体質を自立できる体制へと転換させ、その難局を乗り越えました。
昭和20年、増上寺に晋山。空襲で灰燼に帰した大本山の再建が辨匡師に託されました。また、師は「聞いてわかる言葉で仏教を語る」ことにこだわり、わかりやすい勤行を目指しました。80歳を過ぎる頃からはほぼ失明しましたが、講義や講演をするときには、その話の根拠が大蔵経のどこにあるかなどを明確にしながら進められました。そして、増上寺大本堂再建に目途を付けられるも、昭和46年4月16日の起工式を目前にした7日に、94歳で静かに遷化されました。法名は、順蓮社大僧正性譽上人隨阿法海節堂辨匡大和尚です。