明顕山 祐天寺

年表

昭和19年(1944年)

祐天寺

柳原家より寄進

1月、柳原義光伯爵より、前年に薨去された大正天皇生母である一位の局(早蕨典侍。昭和18年「祐天寺」参照)の遺物が祐天寺に寄進されました。

寄進されたのは狩野山雪筆の屏風「龍虎梅竹の図」や菅原道真の床飾のほか、文台、飾棚、木魚乗布団です。

参考文献
柳原家より寄進の目録

勝雄、結婚

3月10日、祐天寺17世巖谷愍随の長女の美壽子と井上勝雄(のちの祐天寺20世)の結婚式が祐天寺にて執り行われました。

前年9月に急逝した前住職巖谷俊興(祐天寺18世)には跡を継ぐ子どもがいなかったため、俊興の妹である美壽子に婿養子を迎えることとなりました。前住職の急逝や戦況の悪化という難局を乗り越えられる人物が求められ、大正大学の学生時代に応援団の団長を務め、自警団を組織するほど剛気で義侠心にも富み、忍耐強いと評判の勝雄に白羽の矢が立ったのです。

結婚した当初、勝雄は一時的に陸軍を除隊していました。3月中に祐天寺の日曜教園を再興し、4月1日からは大正大学の講師となりますが、7月10日には再び招集され、同月13日には宇都宮師団第二八七六部隊へ入隊します。納部隊付・機動部隊を編成し、同日中に阿部部隊副隊長を命じられて教育情報主任となり、築城を担当しました。

勝雄はその後も終戦まで、故郷の栃木県や茨城・千葉県内の駐屯地に配属されていました。一方の美壽子は、空襲を避けるため勝雄の親類寺院を頼って疎開し、各地を転々とする生活を続けました。

参考文献
『勇猛精進』

森川家、合祀墓を建立

5月、祐天寺にある子爵森川家の墓が改葬され、同墓所内に合祀墓が新たに建立されました。

森川家と祐天寺との関係は生実藩(千葉県千葉市)4代藩主森川俊胤が祐天上人に帰依したことに始まり、俊胤の辞世の歌が刻まれた祐天名号碑も建てられました。この碑は当初、森川家の墓所内にありましたが、このとき改葬され、のちに書院前に再建されました。俊胤の辞世の歌は「となへかし佛の御名を残し置く法のしるしの年はふるとも」です。

参考文献
森川俊胤の辞世の歌付き祐天名号碑、「下総生実藩主森川氏の墓(祐天寺)」(中島正伍、郷土目黒第39集、目黒区郷土研究会、1995年)

勝雄、権大僧都に

11月10日、勝雄は郁芳随円浄土宗管長より権大僧都に叙せられました。

参考文献
『勇猛精進』

祐天寺幼稚園、閉園

この年、太平洋戦争の戦禍が目黒にまで及ぶようになり、園児たちも疎開していたことから、祐天寺幼稚園をやむをえず閉園しました。園舎は戦災を受けた目黒税務署に摂収され、その仮官舎となります。

その後、昭和29年(1954)に目黒税務署が現在地の目黒区中目黒5丁目に移転したことを機に、幼稚園の再開が決まりました。しかし、元の地では修繕や整備費用の工面が難しかったことなどから祐天寺境内に園舎を建設することとなり、同年12月に境内の一角に祐天寺附属幼稚園を創設し、現在に至ります。

参考文献
『勇猛精進』

かなぶっつぁん、供出

この年、宇都宮清巖寺(栃木県宇都宮市)の「かなぶっつぁん」と呼ばれて親しまれていた金銅地蔵尊が、「金属類回収令」により供出させられました。

この地蔵尊は、元禄3年(1690)に焼失した清巖寺本堂が正徳4年(1714)に再建された際、再建造営供養のために造立されたものです。鴻巣勝願寺(埼玉県鴻巣市)22世祐頓によって開眼供養が執り行われました。祐頓が祐天上人の直弟であることから、開眼供養の際には祐天上人より、清巖寺本尊前に金5、000匹と自筆の名号1幅、さらに祐天上人着用の白地金襴五条袈裟1肩が寄付されました。

この地蔵尊には多くの講が作られ、檀家でない参詣者も訪れるなど多くの人々から信仰を寄せられていました。そのため、地元の人たちは供出作業には手を貸さず、さらに地蔵尊が失われたあとでも、残された台座に花や菓子を供える人が絶えませんでした。

平成6年(1994)には、戦後50年の節目を迎えたことから清巖寺檀家の人々の間で地蔵尊再興の話が持ち上がり、昭和17年(1942)に撮影された地蔵尊の写真を基にして、寸分違わぬ大きさで再造立されました。

参考文献
祐天上人名号軸裏書き(清巖寺)、『清巖寺資料』(清巖寺)、『那須温泉記・芳宮山縁起』(東京大学史料編纂所)
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