4月12日、東京府より祐天寺梵鐘に回収免除の許可が下りました。これは、武器の生産に必要な金属類を確保するために政府が昭和16年(1941)8月30日に交付した「金属類回収令」を受け、翌17年(1942)10月25日に俊興が申請していた回収免除の許可願いが認められたのです。
しかし、この「回収令」は戦局の悪化に伴って厳しさを増し、やがては鍋釜などの日用品やアルミニウムなども回収されるようになります。このときは回収を免れた梵鐘も、終戦間際には供出するため鐘楼堂から下ろしました。しかし、幸いなことにまもなく終戦を迎えたことで、梵鐘は回収を免れました。
5月10日、鏑木家から登高座(法要の際に導師が座る席)が寄進されました。この登高座には当初、鏑木家の家紋と唐草の彫刻が施されていましたが、平成6年(1994)に修理された際に祐天寺の寺紋である鐶一紋に付け替えられました。
6月、淺野六蔵が幼くして亡くなったわが子の供養のために発願主となり、祐天寺境内に子まもり地蔵尊を造立しました。また、同時に島崎鐵三郎・飯塚一郎・横溝坤一・鈴川常一が共同で子まもり地蔵尊の碑を建立しました。
この地蔵尊は子どもの百日咳や虫封じに利益があるとして信仰され、地蔵尊に子どもの成長を祈願したあと、はしか除けの利益があるという宝篋印塔前の穴くぐりを子どもにくぐらせる習わしが現在も続いています。
7月1日、東京都が誕生し、商工奨励館(千代田区)にて東京都開庁奉告祭が行われました。
明治元年(1868)に江戸が東京府となって以来、祐天寺のある荏原郡は東京府の管轄下にありました。明治22年(1889)に東京市が誕生したあとも荏原郡は東京府の管轄下にあり、昭和7年(1932)に目黒区が誕生した際に東京市の管轄下に移ります。
そしてこの年、政府は戦時下における首都防衛体制を強化する目的で東京府と東京市を廃止して東京都35区を設置しました。終戦後には、人口の激減した区を再編するなどして35区から23区とし、いずれも特別区(市に準じる特別地方公共団体)として現在に至っています。
9月8日、彫刻家の都竹峰仙が観音菩薩立像を彫り上げました。峰仙は飛騨高山(岐阜県)出身の彫刻家です。この像を制作した当時は東京の彫刻家のもとへ弟子入りし、修行していました。この観音菩薩立像はのちに祐天寺に奉納されます。
9月28日、俊興は目黒区仏教連合会の会長として陸軍東部第一七部隊主催の音羽陸軍墓地秋彼岸会祭典に参加するため、その会場である護国寺(文京区)へ向かっていました。蒸し暑い日だったと伝えられています。供も連れずに出向く途中に池袋駅で突然倒れ、46歳という若さで遷化しました。家族が病院に駆け付けたときにはすでに昏睡状態に陥り、意識がなかったそうです。法号は生蓮社愍誉上人随阿愚全俊興大和尚です。
10月10日の本葬は、軍隊の公務中に亡くなったことから軍隊葬として営まれました。
11月10日、祐天寺17世巖谷愍随の弟子で迎接院(練馬区)17世の藤木随教が祐天寺住職を兼務することになり、祐天寺19世となりました。
9月、井上勝雄(のちの祐天寺20世)が中華民国から感謝状を贈られました。前年に金華県で起きた事変後の治安維持に尽力したことに対して授与されたものです。
勝雄はこの年の10月に陸軍東部第二二部隊付きとなって中華民国から仙台(宮城県)へ帰還し、同月10日に除隊しました。
10月16日、明治天皇の典侍で大正天皇生母である二位の局が86歳で薨去しました。葬儀は11月20日の9時50分から青山斎場(港区)で執り行われ、導師を知恩院81世郁芳随円大僧正が勤めました。
天皇・貞明皇后・昭憲皇太后の3陛下から下賜された香花や各宮家からの樒(仏前に供える植物)、各方面から届けられた花輪で埋め尽くされた式場は、荘厳を極めたそうです。霊柩は葬儀・告別式のあとの正午過ぎに斎場を出発し、祐天寺の墓所へ向かいました。祐天寺において午後3時から墓所の儀が営まれ、仮埋葬されました。
二位の局には薨去後に従一位が追贈され、貞明皇后からは墓所に植える紅梅と白梅が贈られました。