明顕山 祐天寺

年表

昭和17年(1942年)

祐天寺

回向庵の石塔、改修

2月9日、今市回向庵(栃木県日光市)の祐天上人名号石塔が同庵の子育地蔵尊とともに、百萬遍講中によって改修されました。この名号石塔は享保17年(1732)4月15日に新井月草が、享保14年(1729)に亡くなった中村利右衛門の菩提を弔うために建立したものです。

さらに、上町念仏供養塔講中21人によって承応2年(1653)に建立された供養塔の再建を兼ねており、名号石塔には念仏供養女講中16人によって棺台(棺を安置するための台)が造られたことも刻まれています。

また、この百萬遍講中とは回向庵の本寺にあたる如来寺の百萬遍講のことで、江戸時代に始まった女性を中心とする念仏講中でした。

参考文献
祐天上人名号石塔改修記念の碑・祐天上人名号石塔(回向庵)

大森薬師堂の法人化

4月、俊興は大森薬師堂(大田区。現在は廃堂)を宗教法人として登記するための申請書を、東京区裁判所大森出張所へ提出しました。

大森薬師堂は本尊薬師如来像を5代将軍徳川綱吉養女の竹姫が信仰していたことで知られ、享保16年(1731)に香残(祐天上人随従、祐海弟子)が住職となって以来、祐天寺の末寺となりました。明治5年(1872)頃からは祐天寺住職が薬師堂の住職を兼務していたことがわかっています。また、薬師堂には江戸時代から寺子屋が置かれ、明治8年(1875)2月からは公立貴船小学校の仮校舎として使われました。

このたびの法人化は昭和14年(1939)に制定された「宗教団体法」に基づいて申請され、大森薬師堂を大森薬師教会と改称しました。

参考文献
法人タル教會設立登記申請書、『香残上人の業績』(祐天寺研究室編、祐天寺、2010年)、『大森区史』(東京市大森区役所編集・発行、1939年)

勝雄、陸軍習志野学校へ

4月1日、井上勝雄(のちの祐天寺20世)は陸軍習志野学校へ甲種学生として派遣されました。7月31日に同校を卒業すると、8月20日には陸軍中尉に昇格し、中華民国へ派遣される原部隊に復帰します。そして、9月には教育・情報担当の三明部隊副官となり、中華民国金華県石門へ派遣されます。また、10月1日には従七位に叙されました。

参考文献
『勇猛精進』

大冏、遷化

8月15日、祐天寺20世勝雄と22世本多正雄の父である福田大冏が、宇都宮光琳寺(栃木県宇都宮市)にて遷化しました。法号は貫蓮社権僧正爾誉光阿良心大冏大和尚です。72歳でした。

大冏は明治4年(1871)2月20日に神田小川町(千代田区)で元旗本の小笠原猛雄の次男として生まれ、名を鉞之助と言いました。明治12年(1879)9月に黒羽常念寺(栃木県大田原市)26世福田大秀のもとで得度し、大冏と改名して養子となります。明治29年(1896)1月に常念寺27世となり、明治32年(1899)5月に光琳寺24世井上松運の娘マンと結婚しました。

昭和8年(1933)に長男の孝雄が結婚し、翌9年(1934)には4女の瑞枝が嫁いだことを機に、大冏はマンとともに光琳寺へ移り住み、光琳寺26世も兼務していました。

参考文献
「大満会(福田・井上)系図」

祐天堂の高札、建立

9月中旬、宮石傳蔵を施主として亀戸祐天堂(江東区)の由来を記した巻物『東京亀戸境橋祐天堂名号石由来記録』が完成し、その巻物の一節「祐天堂名号石の由来」を高札に記して同堂の前に建てました。

11月29日には祐天堂の大施餓鬼法要が営まれ、俊興がその導師を勤めました。天台宗光明寺住職の青木孝栄と、香取神社神官の香取茂世、亀戸警察署署長の小山高保、亀戸3丁目町会会長の小川平吉らが参列した法要では、6丁目の加藤慶吉率いる大和流御詠歌の1団による詠唱奉納や、浅草芸能人らによる踊りも披露され、3日間にわたる盛大な大施餓鬼会となりました。

この大施餓鬼会以降は祐天堂へ参詣者が引っ切りなしに訪れるようになり、毎月24日には宮石家の床の間に掛けられた祐天上人名号軸(祐天堂内の祐天上人名号石塔を採拓して軸装したもの)の前で深夜まで御詠歌を奉賛することが恒例となりました。

参考文献
『東京亀戸境橋祐天堂名号石由来記録』

祐天上人墓、旧跡に

9月30日、祐天上人墓の東京府史蹟仮指定(大正14年「祐天寺」参照)が解除され、東京府の旧跡に指定されました。その後、昭和27年(1952)4月1日には「東京都文化財保護条例」に基づいて東京都の史跡に指定され、さらに昭和30年(1955)3月28日には東京都指定旧跡に指定されて現在に至ります。

参考文献
『東京都の文化財』4(東京都教育庁生涯学習部文化課編集・発行、1992年)、「都旧跡『祐天上人墓』の指定来歴について」(東京都教育庁編集・発行、2012年)

『掃苔』発行

9月、東京名墓顕彰会の機関誌『掃苔』11巻9号が発行され、中村寶水の「福島に於ける祐天上人舌根の墓」と題する論考が収載されました。この論考では『日本人名辞書』や『佛教大辞彙』などを引用して祐天上人の逸話を紹介しているほか、「石城祐天念佛」として「じゃんがら念仏」についても触れています。

参考文献
『掃苔』11巻9号(東京名墓顕彰会編集・発行、1942年)

女子青年会、結成

10月、祐天寺にて女子青年会が結成されました。

参考文献
『俊興上人の業績』

『成田不動縁起』出版

11月25日、國枝史郎の『成田不動縁起』が近代文藝社より1万部限定で出版されました。本書には「愚鈍だった祐天上人が成田山の不動明王の利益によって賢くなる」という伝説が収められています。

参考文献
『成田不動縁起』(國枝史郎、近代文藝社、1942年)

寺院

梵鐘など、供出

5月9日、戦局の悪化により武器生産に必要な金属資源の不足を補うため、「金属類回収令」第6条に規定されている「強制譲渡命令」が発動されました。同月12日から寺院の仏具・梵鐘などの供出も始まりました。梵鐘に赤いたすきを掛けて清酒や赤飯を供え、出征兵士の壮行会と同じように万歳三唱をして送り出したと言います。

国宝や慶長末年(1614頃)以前に造られた古鐘は供出免除とされていましたが、それが徹底されずに失われた鐘も多かったようです。永和元年(1375)に鋳造された華蔵寺(島根県松江市)の梵鐘もそのような例であり、「近隣の社寺の鐘がことごとく供出されたのに華蔵寺の鐘だけが残っているのは不都合だ」と言い立てられたことで、供出免除対象の古鐘でありながら供出させられてしまったのです。

参考文献
『朝日新聞』(1942年5月9日付)、『佚亡鐘銘図鑑』(坪井良平、ビジネス教育出版社、1977年)、『梵鐘遍歴』(眞鍋孝志、ビジネス教育出版社、2002年)
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