明顕山 祐天寺

年表

昭和13年(1938年)

祐天寺

勝雄、大正大学を卒業

3月15日、井上勝雄(のちの祐天寺20世)が大正大学文学部浄土学科を卒業しました。4月4日には、郁芳隨圓浄土宗管長より擬講(僧侶の学識によって与えられる学階の1つ)を授与されました。

参考文献
『勇猛精進』、擬講の授与状

施餓鬼会、再興

7月1日、俊興はこれまで中断されていた施餓鬼会を再興しました。祐天寺の施餓鬼会がいつから中断されていたのかは不明ですが、この年は日中戦争が始まって1年が経つことから、戦没者1周年供養のためにもと再興を決めたようです。施餓鬼会の再興に合わせて本堂荘厳具や曲録、施餓鬼柵などを新調し、法要後には余興として漫才も催され、200人余りの参詣者で賑わいました。

翌年にも同日に施餓鬼会が営まれ、この年は土曜日と重なったためか参詣者が400人を超え、参詣者に供するための供物やお膳が足りなくなるほどだったそうです。これ以後、祐天寺では毎年7月1日に施餓鬼会法要が営まれるようになりました。

参考文献
『施餓鬼会再興記録』

『不動尊霊験祈祷法』出版

7月1日、小野清秀の『不動尊霊験祈祷法』が日本佛教新聞社より出版されました。本書の本編第30章「不動尊の名刹縁起と霊験記」という章の「祐天上人と不動尊」という項に祐天上人が紹介されています。

参考文献
『不動尊霊験祈祷法』(小野清秀、日本佛教新聞社、1938年)

白川電機、名号を奉納

7月25日、芝区白金志田町(港区)の白川電機製作所より画帖仕立ての祐天上人名号が奉納されました。

参考文献
白川電機奉納の画帖仕立て祐天上人名号

納札額の奉納

8月、俊興の名号付き納札額が奉納され、本堂に掛けられました。この額の中央には名号のほかに「国威宣揚 武運長久」と彫られ、当時の日本の世相が反映されています。

納札とは神社仏閣への参拝記念に自分の名前を記した木札を奉納することを言い、その起源は平安時代後期の花山天皇の時代(984~986)までさかのぼります。特に天保11年(1840)頃から納札の木札を配列して扁額に仕立てることが盛んに行われるようになり、講や同業者仲間などが集まって、さまざまな納札会が結成されました。

この納札額には消防組や見番(待合・料理屋への芸者の取り次ぎや玉代の計算などを行う事務所)のほかに魚市場の仲買人、寿司職人、噺家などの名前が見られます。また、木札の文字を書いた2代目高橋藤は両国(墨田区辺り)で山善という提灯屋を営んでおり、江戸文字に画期的な金字塔を打ち立てた1人でした。

参考文献
俊興名号付き納札額、『納札大鑑』(納札会編集・発行、1911年)

『美談日本史』出版

12月10日、長坂金雄の『美談日本史』第7巻「宗教美談」が雄山閣より出版されました。本書の第4章に「祐天寺の創立」という項があり、次のような話が紹介されています。

川越(埼玉県川越市)にある浄蓮寺という古寺で妖怪騒ぎが起きました。行脚の名僧が噂を聞き付け、妖雲退散を試みますが失敗します。そこで、川越領主が屈強な武士や力士を遣わしますが、彼らも歯が立ちませんでした。幕府も見過ごせなくなり、檀通上人に「門弟の中から妖怪退治をする者を選び、浄蓮寺に遣わすように」と命じました。弟子となったばかりの祐天上人に白羽の矢が立ち、無事に退治に成功したということです。

本書ではほかに、檀林の住職や増上寺36世となった祐天上人が、5代将軍徳川綱吉や8代将軍徳川吉宗に拝謁した際の様子なども紹介されています。

参考文献
『美談日本史』第7巻(長坂金雄、雄山閣、1938年)

戦勝記念撮影

この年、祐天寺幼稚園の園児たちが戦勝を祝って、園庭で記念撮影をしました。おそらく、前年から始まった日中戦争において、日本軍が武漢を陥落したことを祝ったものと思われます。

参考文献
『俊興上人の業績』

寺院

報国托鉢勤行、実施

8月23日から報国托鉢勤行が仏教連合会によって行われ、集まった浄財すべてを国防資金として寄付しました。これ以降、毎月15日に全国各地の寺院で報国托鉢勤行が実施されました。

これは日中戦争により、国民精神総動員〔自己を犠牲にして国家のために尽くす国民の精神(滅私奉公)を推奨した運動〕が実施されたからです。仏教界は文部省を通じて銃後活動(実際の戦闘には参加しないが、間接的に戦争に参加すること)を行うように指示を受け、各宗管長はこの内容を全国の末寺に伝達しました。

各宗は恤兵という、戦地にいる兵士に金銭や物品を贈る慰問のための特別専門機関を設置しました。また、 托鉢勤行のほかに、応召家族への慰問や殉国者の慰霊、従軍布教師の派遣なども行いました。

参考文献
『仏教年鑑』昭和13年版(熊崎閑田編、佛教年鑑社、1938年)、『浄土教報』(1938年9月4・25日付)
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