1月16日、『磐城時報』が映画『祐天上人記』(昭和10年「祐天寺」参照)の製作状況について続報を伝えました。記事によると「全10巻の予定で進められている映画の撮影は天候などの影響により遅れが生じているものの、約3分の1にあたる4巻まで完成した」とのことです。さらに、1月22日からは「館林善導寺(群馬県館林市)で祐天上人の断食・水垢離の場面をロケーションし、2月下旬には帝都封切りを敢行」と伝えました。しかし、その後も撮影が遅れ、この年の12月14・15日に行われた増上寺内30か所での撮影をもって、ようやく全撮影を終了します。
3月31日、祐天寺の寺格が準檀林4等から同2等に変更されました。
4月、祐天上人の焼けずの名号軸(享保9年「伝説」参照)が表具師の田中鉦次郎によって修復されました。
5月、消防組の元六番組から、香炉と須弥壇型の前机が奉納されました。前机には、な・う・ゐ・の・お組それぞれの纏の彫刻が施されています。
6月28日、俊興は東京中央放送局第2放送(現、NHKラジオ第2放送)の『日曜勤行』に出演し、「祐天上人の御遺徳について」を話しました。この放送は祐天寺本堂から中継されました。
6月28日、竹内宗故が編集した『飯沼弘経寺誌』が弘経寺(茨城県常総市)より出版され、「学寮の盛衰」という章に、祐天上人が紹介されました。祐天上人が檀通上人に随従して弘経寺で修行していたときや、弘経寺30世となったときの出来事が書かれています。また、宗故はこの年『飯沼弘経寺と開山良肇上人略伝』も著し、その中でも祐天上人を紹介しています。
7月13日、静岡県見付町(同県磐田市見付)の小森啓一が、小森家の本尊として代々伝わる祐天上人自作の仏像の縁起を『祐天上人と小森家の佛縁起』と題して冊子にまとめ、俊興に贈りました。
この縁起には、仏像の背面に祐天上人自刻の名号があることや、この像にまつわる数々の霊験があったこと、昭和7年(1932)に増上寺79世道重信教大僧正が「此御聖像は日本唯一の珍宝なり」と語られたことなどが記されています。
7月、駒込光源寺(文京区)20世瑞誉によって、光源寺に祐天上人名号付き無縁塔が建立されました。
8月25~31日に祐天寺の裏山で、祐天寺日曜教園主催の第2回祐天寺林間学校が開催されました。参加者は少年部70人、中等部30人でした。
身体の鍛錬を目的とする林間学校が多い中、祐天寺の林間学校は2学期に入っても規則正しく勉強に打ち込めるよう、その準備としての勉強を主軸としたものでした。祐天寺の裏山は涼しく、勉強には打って付けの場所だったそうです。
主に大正大学児童研究部の学生たちが子どもたちの勉強相手となり、子どもたちが飽きずに勉強できるようにとの配慮から童話や唱歌、舞踊や運動なども組み込まれていました。修了式にはノートや鉛筆などが配られたことから、子どもたちは大変楽しみにしていたということです。
10月28日、地蔵堂の正面に鰐口が吊り下げられました。この鰐口には「祐天寺第十八世愍誉俊興代 昭和十一年十月廿八日」と刻まれています。
12月8日、俊興は東京市の下水改修工事のため、鉄筋コンクリート柵をはじめマツやスギの丸太、釘などを東京市に寄付しました。
この年、恩多の辻(東京都東村山市)に当麻直二喜興が高札場(幕府や領主が決めた法度や掟書などを板札に書き、高く掲げておく場所)跡碑を建立しました。
この碑の裏面には「地蔵堂所在地 祐天寺弟子了覚入滅ノ地也」と刻まれています。この地蔵堂は大垈村地蔵庵(昭和10年「祐天寺」参照)のことで、了覚は明和8年(1771)頃にその庵主を勤めていました。
この年から亀戸祐天堂(江東区。元禄4年「祐天上人」、明治8年「祐天寺」参照)の維持・管理を、森田治郎吉を守役の中心とした境町睦境進会の役員と有志が行うこととなりました。
祐天堂が建てられた時期は不明ですが、江戸時代後期頃には柳屋、坂本屋、四ツ目屋、伊勢屋、大津屋、大阪屋の6軒が世話人となって堂を守っていました。明治39年(1906)頃には鈴木ナヨ、大熊ナミ、大熊善太郎、森田栄次郎の4氏が世話人として名を連ね、堂内の祐天上人名号石塔の拓本を持って祐天寺を訪れています。
当時は祐天講と称する講があり、名号石塔には水難除けや子守りの利益があると信仰され、多くの講員を集めていたそうです。御詠歌「後の世を思えば参れ境橋 萬づの罪も流す石文」(森田栄次郎作)なども作られました。昭和10年(1935)にも祐天堂世話人の鈴木兼蔵、大熊政太郎、小沢保蔵が祐天寺を参詣し、祐天上人の墓前に卒塔婆を捧げ、金10円を寄進しています。
この年の春彼岸に、消防組せ組から「せ組有縁之霊」の位牌が納められました。