3月25日、座光寺憲之の『名僧知僧伝』が聖教書院から出版されました。本書は祐天上人を含む20聖人の伝記を集めたものです。前年に憲之が造文社から出版した『宗門を叩く』(昭和8年「祐天寺」参照)と全く同じ内容であることから、改題して再版したものと考えられます。また、9月15日には同書を再編集し、祐天上人を含む11聖人の伝記集『禅門聖賢』も出版されました。
4月、消防組の一四番組から寄進された本堂の花瓶台(明治41年「祐天寺」参照)と、江戸町火消せ組から寄進された「御寶前」の額が修復されました。
5月10日、酒井紋三郎によって歯霊供養塔が祐天寺の墓地に建立されました。その供養塔には、「紋三郎が酒井歯科医院を開業した昭和5年(1930)から昭和9年5月9日までに抜歯した患者の歯2、933本の歯霊を供養するために建立した」と刻まれています。また、「今後は毎年、本院の開業記念日に歯霊供養を行う」とも併せて刻まれています。
6月1日、祐天寺第二幼稚園が東京府内で15番目に設立された浄土宗系の保育事業施設として開園しました。
この頃の目黒区は東横線の開通などにより都心部からの移住者が急激に増えていましたが、祐天寺付近には幼稚園などの幼児施設がなかったため、俊興は社会奉仕の一端として幼稚園の開園を決めました。そして、この幼稚園の名称を、漆雅子が開園準備中であった祐天寺第一幼稚園と区別して祐天寺第二幼稚園としました。
しかし、7月12日に俊興は、祐天寺第二幼稚園の名称を祐天寺幼稚園と改称することを東京府へ願い出て、17日に認可されました。その後、祐天寺第一幼稚園も、祐天寺幼稚園と紛らわしいとの理由から地名に因んで紅葉ケ丘幼稚園と改称します。
祐天寺幼稚園の園児たちは白組、青組、緑組などに組分けされ、星まつりや誕生日会、運動会、遊戯会、動物園への遠足、日吉台(横浜市港北区)での芋掘りなど、さまざまな年中行事を楽しみました。しかし、第2次世界大戦の戦況悪化による学童疎開や、昭和18年(1943)に園長の俊興が急逝したことなどにより、昭和19年(1944)にはやむなく休園することとなります(昭和19年「祐天寺」参照)。
6月20日、東京府の都市計画事業の一環として蛇崩川の改修護岸工事が行われることになり、祐天寺は府から蛇崩川付近の所有地の売り渡しを求められました。そのため、目黒区へ土地の調書を提出して、内容に間違いがないことを証明してもらいました。
7月5日、祐天寺は目黒区役所の庁舎の新設に伴い、その敷地用地として所有地を売り渡すことになり、その許可願を東京府に提出しました。同月25日には府知事から許可が下り、1、011坪6合の土地を売却。目黒区役所の新庁舎(目黒区中央町2丁目)は昭和11年(1936)9月に完成しますが、その後の平成15年(2003)に、現在地の目黒区上目黒2丁目に移転します。
9月25日、大黒町(京都市東山区)の高樹院で祐天上人の名号軸を「幽霊封じ込めの名号」として掛け、累の秋彼岸供養が営まれました。
この名号軸には文化9年(1812)に書かれた百萬遍知恩寺(同市左京区)54世祐水の裏書きがあります。大黒町の宝として大切に扱われ、春秋の彼岸には町内の西願寺、三縁寺、養福寺、高樹院の4か寺(4か寺とも現在は同市左京区に移転)が交代で掛けて累を供養していました。供養には、累舞踊などの芸能関係者や町内の人たちが大勢参加していたそうです。しかし、都市開発により寺院の移転や住民の転出が続き、昭和63年(1988)の秋彼岸供養を最後に、三縁寺で永久保存することが決まりました。
9月、祐天上人名号付き幡一対が草津浄運寺(滋賀県草津市)に奉納されました。この幡の施主は浄運寺檀家の中村宇之助で、幡の裏面に中村家の人物の戒名が刻まれていることから、先祖供養のために奉納したものと思われます。
11月16日、祐天寺の檀家である島崎家と田村家より、本堂に置く塔婆立が奉納されました。この塔婆立には鐶一紋の彫刻が施されており、平成4年(1992)9月に修補されました。
11月28日、田村周助の『祐天上人実伝 附録 天慶の乱』が田村長流出版部より出版されました。
周助は「成田山新勝寺(千葉県成田市)の不動尊と祐天上人の伝説の真偽を明らかにするため、各地の関係寺院を歴訪し、祐天上人と関係のある各寺院が秘蔵する古書を主な材料として、この本を書いた」と序文に記しています。そして、祐天上人の事跡研究を通してわかったこととして、「師檀通上人に随従して館林善導寺(群馬県館林市)へ入った祐天上人が、善導寺の願成出世不動尊に参籠して利益を得たのであって、新勝寺に参籠したのは別の上人であり、間違って伝わったのだ」と述べています。
この年、『読売新聞』が「福島市の郷土研究家で西澤書店の店員だった宮内富貴夫が、祐天上人の手紙2通と伝記を紙屑屋から発見した」という記事を新聞に掲載しました。
1通は祐天上人が増上寺大僧正となった翌年、上京してくる母に宛てた手紙で、もう1通は祐天上人が修業時代に昇席したことを父に報せた手紙と報道され、伝記は「和紙140枚の大冊で、祐天上人に関する伝記の中で最も細密なもの」と伝えていますが詳細は不明です。
後年、この母へ宛てたとされる手紙が見付かりました。郷里の両親に向けた内容となっており、祐天寺の弟子筋にあたる順良が鎌倉光明寺の住職として晋山することを伝えていることから、天保3年(1832)春に書かれた手紙だとわかります。残念なことに祐天上人直筆の手紙ではありませんでした。