明顕山 祐天寺

年表

昭和8年(1933年)

祐天寺

芳全、遷化

1月12日、俊興のいとこで弟子でもあった田中芳全が28歳で遷化しました。法号は顕蓮社良誉玅楽芳全和尚です。

参考文献
『浄土教報』(1933年1月22日付)

幼稚園設立を申請

8月3日、俊興は翌9年(1934)4月1日の開園を予定して準備を進めてきた祐天寺第二幼稚園の設立許可を、東京府へ願い出ました。これは12月7日に認可されます。

この間の10月1日から、目黒区上目黒5丁目2、454番地(目黒区五本木1丁目)に所有していた257坪の土地に木造平屋建ての園舎を新築し始め、ピアノやオルガン、ブランコ、シーソー、砂場などの幼稚園設備の設置を計画していました。

参考文献
「祐天寺第二幼稚園設置の件」(東京都公文書館蔵)

『宗門を叩く』出版

9月25日、座光寺憲之の『宗門を叩く』が浩文社より出版されました。本書では、聖徳太子をはじめ各宗派の開祖など20聖人の伝記を紹介しており、祐天上人の伝記も掲載されています。

参考文献
『宗門を叩く』(座光寺憲之、浩文社、1933年)

破笠墓、改葬

この年、狂言作者の榎本破笠が祐天寺に改葬されました。破笠は本名を虎彦と言い、慶応2年(1866)に紀伊国(和歌山県)で生まれました。福地桜痴(福地源一郎)の門下として明治23年(1890)に歌舞伎座で狂言作者の見習いとなり、桜痴没後は歌舞伎座の立作者として活躍しました。代表作は『名工柿右エ門』『南都炎上』『女歌舞伎』などです。

参考文献
「第二墓地に眠る二人の演劇人 榎本破笠・伊坂梅雪」(中島正伍、『THE祐天寺』26号、祐天寺、1993年)

『目黒音頭』誕生

この年、前年に目黒が東京市に合併したこと(昭和7年「祐天寺」参照)と東横線全線開通を記念して、祐天寺駅付近の商店主や有志の人たちによって『目黒音頭』が作られました。

この歌詞には「野辺に蝶舞う祐天寺」という一節があります。作詞は小川花仏、作曲は並木あをばが手掛け、当時の人気歌手東海林太郎と新橋喜代三が歌いました。『目黒音頭』の完成は祐天寺駅前広場に櫓を建てて盛大に発表されました。

参考文献
「祐天寺と蝶」(中島正伍、『THE祐天寺』11号、祐天寺、1989年)、『東京朝日新聞』(1934年7月9日付)

名号の贋作

この年頃、石城郡平町(福島県いわき市)に住む白河(同県白河市)生まれの65歳くらいの男が、「南無阿弥陀仏 祐天(花押)」と墨書した幅5、6寸(15~18センチメートル)、長さ1尺5寸(約45センチメートル)ほどの和紙を何枚も部屋に張り巡らして、煙でいぶしていたそうです。周辺に住む人々は「仏壇用の祐天上人の名号を贋作していたのだろう」と噂しました。のちにいわき市中央図書館の館長が、この噂話を自分の少年時代の思い出話として語り、それが新聞記事となりました。

参考文献
『いわき民報』(1979年11月6日付)
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