明顕山 祐天寺

年表

昭和6年(1931年)

祐天寺

祐天松

4月8日、『東京朝日新聞』に「都計の犠牲で切らるゝ祐天松」という見出しの記事が掲載されました。祐天松とは江戸時代に将軍が鷹狩りの途中に祐天寺を訪れた際、将軍の馬をつないだ松の木のことです。

記事は「恵比寿を起点として玉川に通じる祐天寺前の道(現在の駒沢通り)が都市計画補助線18号新路として拡張されるため、『将軍馬つなぎの松』と言われた老松が切り倒される運命にある」と伝えました。しかし、4月11日の続報によると、「檀家総代や地元住民たちが老松保存の運動を起こしたことから、松を道路の真ん中の植樹帯として残し、その間はさらに道路を広げることになった」ということです。

当時、松の保存は美談として賞賛されましたが、松の近くに建てられた建物の影響などから根元が弱り、まもなく枯れてしまいました。

参考文献
『東京朝日新聞』(1931年4月8日・11日付)、「祐天寺門前の駒つなぎの松」(平山勝蔵、『祐天寺研究』、1987年)

水難供養記念碑、建立

9月20日、阿武隈川に架かる田町大橋(福島県白河市)のたもとに水難供養記念碑が建立されました。この石碑は、文化元年(1804)に建立された祐天上人の水難供養名号石塔(文化元年「祐天寺」参照)の再建を記念して、白河の青年団をはじめとする地元の人たちや近隣の寺院からの寄付金によって建てられました。

参考文献
水難供養記念碑刻文(福島県白河市)

仁王門の屋根、葺き替え

11月、仁王門の屋根を瓦から銅板に葺き替えました。大工棟梁には松崎(静岡県賀茂郡)から齋藤郡蔵が招かれました。そのほか、銅工の酒井正治、木挽の島村磯吉、鳶の各務末吉らによって修繕されたことが棟札に書かれています。

参考文献
仁王門棟札

泉福寺本堂、上棟式

この年、俊興は瑞江泉福寺(江戸川区)本堂の上棟式に参列しました。泉福寺26世牧野徳善は俊興の叔父にあたります。この式の記念写真には俊興のいとこで、のちに泉福寺27世となる田中慶典の姿も写っています。

参考文献
泉福寺本堂上棟式の記念写真

寺院

日本宗教平和会議、開催

平和問題を話し合い世界各宗教の提携を図ることを目的として、日本宗教平和会議が開催されました。翌年ワシントンで開催される世界宗教平和会議の日本委員会が、その会議の準備会として5月18日から3日間、明治神宮外苑の日本青年会館において行ったものです。

会議の趣旨として「宗教の立場から平和思想および平和運動の勃興を計る」、「平和の問題を中心として諸宗教の提携を計る」、「会議の結果を翌年開催される世界宗教平和会議に提出し、平和運動に参加する」という3つが掲げられました。

この会議には神道、仏教、キリスト教の代表者350余人が出席し、記念講演会が行われたあと、部会に分かれて宗教倫理、人道問題、学術、芸術、政治、経済、外交などの研究討議および意見発表が行われ、最終日には「平和宣言」が採択されました。

参考文献
『仏教年鑑』昭和7年(堀口義一編、仏教年鑑社、1931年)、『基督教年鑑』昭和7年版(海老澤亮編、日本基督教聯年鑑部、1931年)
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