明顕山 祐天寺

年表

昭和5年(1930年)

祐天寺

最勝院で祐天上人啓蒙

1月2日、磐城最勝院(福島県いわき市)31世阿部崇順は『祐天大僧正一代御伝略記』を書き上げ、小冊子にして関係各所に配りました。

また、3月7日は祐天上人像の開帳式が行われました。新聞の報道によると、午前9時より祐天上人像が開帳され、護摩を申し込む参拝者は1、800人に達したということです。

さらに、9月10日には祐天上人の祭典が盛大に行われました。最勝院本堂再建後最初の大祭典であり、午前10時より正午まで行われた法要には5、000~6、000人もの人出があったと新聞は伝えています。

参考文献
『祐天大僧正一代御伝略記』(阿部崇順、最勝院、1930年)、『磐城時報』(1930年3月6日・11日、9月12日付)、『福島民友新聞』(1930年9月7日付)

『大東京の史蹟と名所』出版

3月27日、佐藤太平の『大東京の史蹟と名所』が博文館より出版されました。祐天上人墓が東京府指定史蹟であったことから、本書には祐天寺の歴史とともに祐天上人墓が別立てで紹介されています。

参考文献
『大東京の史蹟と名所』(佐藤太平、博文館、1930年)

東京府の史蹟調査

3月31日、東京府は『東京府史蹟調査報告書』第7冊を発行しました。東京府の名家墓所をまとめたものです。本報告書には祐天上人墓の所在地や形状のほか、塔銘、祐天上人の略伝が載せられています。また、そこに掲載されている写真から、当時の祐天上人墓は鬱蒼とした木々に囲まれていたことがわかります。

参考文献
『東京府史蹟調査報告書』第7冊(東京府編集・発行、1930年)

勝雄、得度

4月1日、のちに祐天寺20世となる福田勝雄が、父で黒羽常念寺(栃木県大田原市)27世の福田大冏を師僧として16歳で得度しました。浄土宗への僧籍届け出は翌年の10月28日に行われました。

参考文献
『勇猛精進』

『由緒沿革書』の制作

5月、俊興は「臨時宗勢調査施行細則」第2条および第13条に基づいて祐天寺の『由緒沿革書・財産明細帳調査書』を書き、浄土宗務所へ提出しました。

参考文献
『由緒沿革書・財産明細帳調査書』

『怪談累ケ淵』公開

8月15日、マキノプロダクションが製作し、二川文太郎が監督を務めた映画『怪談累ケ淵』が新宿劇場(新宿区)にて公開されました。三遊亭圓朝の怪談噺『真景累ケ淵』を原作とした映画です。主役の深見新吉を沢村国太郎、皆川宗悦を荒木忍、豊志賀をマキノ智子、お久を松浦築枝が勤めました。

参考文献
日本映画データベース

金戒光明寺に難産除け名号軸などを奉納

10月17日、金戒光明寺(京都市左京区)に祐天上人の難産除け名号軸と紺紙金泥の十念名号軸が奉納されました。箱書から、元禄5年(1692)3月頃に書写されたことがわかります。

参考文献
祐天上人難産除け名号軸・祐天上人紺紙金泥十念名号軸(金戒光明寺)

『東京を歌へる』出版

10月、小林鶯里が撰した歌集『東京を歌へる』が文藝社より出版されました。本書には目黒を詠んだ歌も収められており、その中に室賀春城が祐天寺を詠み込んだ句もあります。

夏草や 道左して 祐天寺

参考文献
『東京を歌へる』(小林鶯里編、文藝社、1930年)

人物

牧島如鳩

明治25年(1892)~昭和50年(1975)

祐天寺祐光殿には釈迦の生涯を描いた4枚の油絵が飾られています。その作者である牧島如鳩は明治25年6月25日に足利郡御厨町上渋垂(栃木県足利市)で生まれました。父の百禄は南画家の田崎草雲に入門して閑雲と号していました。また、ハリストス正教会に入信していたことから、如鳩に生後8日で幼児洗礼を受けさせます。

父の影響からか、如鳩は子どもの頃から画が上手でした。それを知る級友たちは小学校の図画の授業で如鳩に画を描かせて、自分たちは早々に教室を出て遊んでいたと言います。

16歳のとき神田駿河台の正教神学校(千代田区)に入学した如鳩は、日本初のイコン画家である山下りんからイコン(聖画像)の手ほどきを受けたようです。如鳩が神学校時代に描いた「ゲッセマネの祈り」をニコライ大主教は絶賛し、「祭服聖器物保管庫に保管し、如鳩のイコンを求める教会があったときに送ることができる」と日記に記しています。

神学校を卒業した如鳩は副伝教者として長野県や福島県、群馬県などで奉職し、その後、教会の職を辞して、シベリア派遣軍に調査団員兼通訳として同行します。大正9年(1920)に帰国したのちは、りんの跡を継いでカムサッカ教会のイコンを手掛けることになりました。さらに、教会幹部の要請によりニコライ堂(千代田区)でイコンを制作し、りんのイコンとともに札幌正教会(札幌市)のイコノスタス(イコンを飾る壁)を飾りました。そして、昭和5年にはニコライ堂のイコン修復も手掛けます。

このようにイコン画家として活動していた如鳩がなぜ、仏画を描くようになったのでしょうか。南画家の父のそばで東洋的な美に親しんできた影響もあったと思われますが、昭和3年(1928)に妻の静子が結核で亡くなり、その菩提を弔うために初めて油彩による仏画「涅槃図」を描きました。さらに、中川宋淵との親交により仏教にも興味を持つようになったと言われ、以降、イコンも仏画も描き、そして仏耶習合の画も描くようになります。

如鳩の描いた初期の仏画「誕生釈迦像」は空襲のさなかにニコライ堂で描かれました。東京大空襲の犠牲者の遺体を収容していたニコライ堂では、宗教の垣根を越えた弔いの祈祷が毎晩捧げられていました。如鳩はこの作品を描きながら、自身の方法で亡くなった人々の追善を行っていたのかもしれません。

如鳩は戦後まもなく小名浜(福島県いわき市)へ赴き、そこに昭和27年(1952)まで滞在しており、この間に如鳩の代表作がいくつも生まれました。その1つ「龍ヶ澤大辯才天像」は、水野谷町(同県同市)の竜ヶ沢という地域の住民が体験した霊験を聴聞して描いた作品です。もう1つの代表作「魚籃観音像」は大漁を祈願して描かれ、この絵の完成以降、不漁続きだった小名浜に大漁が続いたそうです。

如鳩は「龍ヶ澤大辯才天像」を描いた14年後に再び辯才天像を手掛けますが、その下絵を完成させた夜に見た夢で「龍ヶ澤大辯才天の信者、来拝者の守本尊になるように」というお告げを受け、ほかに類例を見ない特殊な図像となりました。キリスト教のイコンも、神的啓示によって神の姿を見た者が、それを画にしたことから始まっており、如鳩のこの体験はそれと同じものだったと言えるでしょう。

昭和38年(1963)頃より如鳩は願行寺(文京区)を会場に、宋淵とともに心画会を毎月開催しました。有志20~30人が集まって墨画を描いており、亡くなる前年まで続けていました。また、アメリカ・ニューヨーク州の禅堂に掲げる仏画の制作を宗淵から依頼され、一緒に現地に赴いています。晩年は願行寺に庵を結んで、創作活動を続けました。如鳩の最後の作品は釈迦の生涯を連作で描くものでしたが、絶筆となった涅槃図は彩色が施されないまま願行寺の本堂に掛けられています。

参考文献
『牧島如鳩展図録』(江尻潔ほか編、美術館連絡協議会、2008年)
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