3月31日、祐天寺の寺格が独礼6等から独礼5等に変更されました。
4月4日、祐天寺前住職の巖谷愍随(祐天寺17世)は宗勢復興後援会の代表理事を継続して務めることが決まりました。この頃、愍随は病が重くなって、重責を果たすことが難しくなっており、前月に行われた理事の選出の際には、医師の診断書とともに再推薦除外願を提出していました。しかし、実務からは離れるものの、理事の一員としての名義は残すことになりました。同月20日付けで実務的な代表理事を辞任したときは、4年にわたる功労に対して、山下現有浄土宗管長より賞状と安陀会(五条袈裟)1肩が贈られました。
4月19日、俊興は朝鮮の大念寺を退山しました。以前から、愍随が自身の病を理由に、再三にわたって俊興に帰国を促していたようです。しかし、俊興は大念寺の本堂が完成するまでは朝鮮にとどまり、役割を全うしてから帰国しました。
6月10日、俊興は祐天寺の境内地の一部を浄桂院へ売却する許可を東京府へ願い出ました。浄桂院は東京市芝区西久保巴町(港区)にありましたが、関東大震災によって大きな被害を受けました。その後、東京市の区画整理などにより、同地での再建は進まなかったそうです。そこで、浄桂院27世伊藤俊明が師である愍随に相談したところ、祐天寺から土地を購入して移転することになりました。愍随は「よかったら門の傍の地蔵堂をそのまま使ってもいいし、裏門の辺りでも良いよ」と話したそうですが、俊明は「表通りが好きだから」と言い、駒沢通りに面した現在の場所に決まったということです。7月21日に売却の許可が下り、同年12月14日に所有権も移行しました。
6月28日、愍随は増上寺79世道重信教大僧正より祐天寺後中興の号を授かりました。愍随が後中興号を授与されるのは大正14年(1925)に次いで2度目となります(大正14年「祐天寺」参照)。
6月29日、かねてより病気療養中だった愍随が、脳卒中により65歳で遷化しました。法号は明顕心院哀蓮社護念誉上人良阿愚祐俊順愍随大和尚です。
愍随は元治元年(1864)11月19日に京橋(中央区)で菓子問屋を営む田中七五郎とゆきの次男として生まれました。祐天寺16世霊俊のもとで得度し、明治16年(1883)に油掛西岸寺(京都市伏見区)24世巖谷純成の養子となります。その後は西岸寺、多賀西福寺(京都府綴喜郡)を歴住し、京都大教会議員を務めるなどしていましたが、火災に遭った祐天寺を復興するため、祐天寺に戻りました。明治32年(1899)に祐天寺17世となり、焼失した諸堂宇の再建を成し遂げました。
愍随は自分のことについては質素倹約を努めるものの、浄土宗の発展のためには寄付を惜しみませんでした。不言実行の人柄が多くの人に慕われ、7月4日に増上寺79世道重大僧正導師のもとで執行された葬儀には大勢の僧侶や檀信徒たちが参列し、近来では例のないほど盛大な法要となったと伝えられています。
7月13日、田中貢太郎が著した『怪談全集 歴史篇』が改造社より出版されました。本書には「累物語」が収載されています。貢太郎は高知県の出身で、高知実業新聞社の記者をしていました。上京後、編集者の滝田樗陰に認められ、雑誌『中央公論』の「説苑」に、情話物や怪談物などを掲載していました。特に怪談物は蒐集と再著作に努めたことから、本書はたびたび再刊されています。
9月14日、俊興は目黒町立目黒実科高等女学校および中目黒尋常小学校へ、それぞれ500円ずつ寄付しました。
9月、演劇評論家の伊坂梅雪からカンボジアの子育観音像が祐天寺に奉納されました。梅雪は帝国劇場創立時から舞台監督主任として活躍した人物で、5世尾上菊五郎の研究者としても有名です。また、かさね塚(昭和元年「祐天寺」参照)の建立を6世尾上梅幸らに呼び掛けたのも梅雪でした。
8月3日、『浄土教報』に「巖谷愍随師を悼みて」と題して次の歌が掲載されました。
法のためつくせし君は祐天の
目くろの里にねむりませしか
11月25日、大日本雄弁会講談社より『講談全集』2が出版されました。本書には「寛永三馬術」「幡随院長兵衛」「寛政力士傳」のほかに、短編として桃川桂玉口演の講談「祐天上人」が収録されています。