2月15日、目黒町役場より前年12月25日に崩御された大正天皇の大喪に関する記録についての照会状が届きました。大正天皇の大喪の記録を編纂するにあたり、地方における奉悼の状況を記録することになったため、3月20日までに回答して欲しいという内容です。
祐天寺は3月18日に「先帝御大漸当時に於ける御平癒の奉祷」「先帝崩御当日の奉弔」「剣葬の儀以前及当日の奉悼」について、それぞれ回答しました。
5月上旬、大須賀良之介が『四倉郷土史蹟』というパンフレットを作成しました。このパンフレットの冒頭には「四倉城は新妻氏の館跡。祐天は四倉城主の玄孫に産る」と書かれています。
祐天寺前住職の巖谷愍随(祐天寺17世)はこのパンフレットを入手し、自身が明治33年(1900)に発行した『祐天大僧正行状実録』に貼付しました。
8月28日、東京横濱電鐵株式会社の渋谷線〔渋谷駅|丸子多摩川駅(現、多摩川駅)間〕が開通し、祐天寺駅が開業しました。この路線は前年2月に開通した丸子多摩川駅―神奈川駅間とつながり、東横線と名付けられます。また、昭和7年(1932)3月には神奈川駅から桜木町駅までが開通し、東横線の全線が開通しました。
開業時の祐天寺駅は単線で駅舎もなく、駅員もいなかったため、ここで電車を降りる人は車掌に切符を手渡して降りたそうです。東横線の開通によって目黒区は住宅化が急速に進みましたが、その一方で農家は衰退していくこととなりました。
9月2日、俊興は赴任先である朝鮮の大念寺の住職を退任しました。これまで海外開教と大念寺建立に尽くした俊興の功績に対して、浄土宗より安陀会(五条袈裟)と慰労金が授与されました。
9月13日、俊興は「公共の利便性を高めるため祐天寺の所有地を線路用地として東京横濱電鐵株式会社へ売却すること」を東京府へ願い出て後日、許可されました。
10月1〜7日、増上寺において増上寺79世道重信教大僧正を伝燈師とし、漆間徳定を勧誡師として静寛院宮奉讃記念五重相伝会が開闢され、多くの婦女子が五重相伝を受けました。このとき、愍随の長女の巖谷美壽子も6歳で五重相伝を受けました。
この五重相伝会は10月2日に執り行われた静寛院宮の奉讃法要に併せて奉修されたものであり、法要の参拝者には「和宮の信仰」というパンフレットが配られました。この奉讃法要は毎年10月2日に行うこととなり、現在も続けられています。
11月28日、愍随は山下現有浄土宗管長より淑徳高等女学校(現、淑徳SC中等部・高等部)の校舎建築評議員に任じられました。生徒数の増加に伴って校舎を増築する必要が生じたためです。
淑徳高等女学校は輪島聞声尼が女子教育の普及・向上を目的として、明治25年(1892)に小石川伝通院(文京区)内に設立した淑徳女学校を前身としています。明治36年(1903)に浄土宗立となり、明治39年(1906)に「高等女学校令」が交付されたことを受けて私立淑徳高等女学校と改称しました。
昭和3年(1928)5月15日に3階建ての新校舎の落成式が挙行されました。しかし、昭和20年(1945)5月25日の空襲により全焼してしまいます。
12月10日、日野良貫の『高僧伝二十講』が春江堂より出版されました。本書には祐天上人のほかに善導大師や法然上人、弘法大師、西行法師など高僧20人の伝記が収録されています。
なお、本書の内容は大正14年(1925)に人生哲学研究会が編集した『高僧傳』(大正14年「祐天寺」参照)に収載されているものと全く同じです。
安政4年(1857)~昭和4年(1929)
地方の医学校出身の医者としてスタートし、のちに政治家として活躍した後藤新平は、陸中国塩竃村(岩手県奥州市)で生まれました。後藤家は仙台藩家中、留守氏の家士でした。明治維新の際に藩が賊軍となって厳しい処分を受けたため、後藤家の生活は厳しいものでした。
明治2年(1869)に着任した胆沢県(岩手県南部・宮城県北部)参事の安場保和に見出された新平は、県の給仕に採用され、阿川光裕のもとで書生として起居します。その後、保和と光裕の勧めによって、須賀川医学校に入学。金のなかった新平は常にぼろをまとっていたため、「下駄はちんばで着物はボロよ/こころ錦の書生さん」という歌まではやったと言います。
24歳という若さで愛知医学校の院長兼医学校長となった新平は、内務省衛生局長の長与専斎宛てに「愛知県において衛生警察を設けんとする概略」を建議したことがきっかけで、明治16年(1883)に内務省衛生局に採用されます。そこで新平に与えられた仕事は、衛生思想・衛生制度の普及・啓発活動でした。新平はまず、地元の現状把握と調査分析を徹底して行いました。どんな要職に就いても公共性というものを念頭に置いて仕事を進め、100年先を見越した先見性と広大なビジョンを持って先駆的な仕事をしていったのです。
明治31年(1898)に台湾総督府民政長官に任命された新平は、台湾の実情を調査し、アヘン吸引への対策や衛生環境を整備した都市造りを行い、台湾を経済的に自立できる国にしていきました。
明治39年(1906)に南満州鉄道株式会社初代総裁に就任すると、清とロシアとの平和的な対話による外交に力を入れ、その結果、清の光緒帝と西太后から好印象を持たれました。さらにロシアではニコライ2世に拝謁し、同国の首相や大蔵大臣とも会談したことでロシア政府の日本に対する敵愾心が薄れ、東清鉄道と満鉄の共存共栄が図れることになったのです。
新平が内務大臣に就任した当時の日本の都市の多くは、城下町のまま人口が増加しており、最低限のインフラも整備されていませんでした。そのため、伝染病対策や都市の交通整備などが進んでいないのが現状でした。そこで新平は都市研究会を結成し、都市政策・都市計画を多方面の都市問題に照らした議論を活発に行わせていきます。大正9年(1920)に東京市長となった新平は「東京市政要綱」を発表し、さらに日本初の都市学の調査研究機関となる東京市政調査会を設立して都市問題に取り組みました。
この下地があったからこそ、関東大震災後に内務大臣兼帝都復興院総裁に就任した新平は、わずか数日で帝都復興の基本方針を練り上げ、ただちに閣議に諮って決定させることができたのです。しかし、帝都復興計画は政治的な思惑によって猛攻撃を受け、高橋是清に至っては帝都復興不要論まで言い出す始末でした。そのため計画は大幅に縮小されたものの、新平は東京市民の生活を第一に考え、早期の復旧・復興を成し遂げました。
大正13年(1924)、虎ノ門事件による山本權兵衛内閣の総辞職に伴って内務大臣を辞任した新平は、二度と政界の第一線に立つことはありませんでした。しかし、政治の倫理化運動の推進や社会事業、文化事業に力を注ぎます。晩年は少年団日本連盟総裁として、日本におけるボーイスカウトの定着と発展に熱意を注ぎ、「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そして酬いを求めぬよう」をモットーに人材を育てました。
岡山へ講演に行く汽車の中で脳卒中を起こし、新平は72歳で亡くなります。その遺体が東京へ送られるときは、夜行列車であったにもかかわらず少年団員らが各駅に集まって見送りました。