6月20日の正午より、祐天寺にて「かさね塚」建立を記念して累供養が行われました。松竹の大谷竹次郎社長、帝国劇場の山本久三郎専務をはじめ、7世松本幸四郎、7世市川中車など多数の俳優や花柳界の踊り手たちが参列しました。
この塚は、大正9年(1920)に復活上演された歌舞伎舞踊『色彩間苅豆』(大正9年「出版・芸能」参照)の好評を記念して建立されたものです。大正13年(1924)7月、6世尾上梅幸(「人物」参照)、15世市村羽左衛門、5世清元延寿太夫の間で「かさね塚を建立しよう」という話が持ち上がりました。翌8月には、累が殺された木下川(鬼怒川のこと。茨城県)堤に建立するのでは遠すぎて参詣しづらいため、累を得脱した祐天上人とゆかりの深い成田山新勝寺(千葉県成田市)に建立することがほぼ決まります。しかし、この年の3月に、さらに参詣が容易な祐天寺への建立が正式に決まりました。
碑文の「かさね」の文字は延寿太夫が揮毫したものです。また、塚には法蔵寺(茨城県常総市)にある累一族の墓土が分祀されました。
10月2日、増上寺大殿において静寛院宮親子内親王五十年御祥忌法要が厳修されました。この法要に先立って組織された静寛院宮五十年御法要奉賛会に、祐天寺前住職の巖谷愍随(祐天寺17世)は顧問として参加していました。
静寛院宮とは14代将軍徳川家茂の御台所の和宮(文久元年「人物」参照)のことです。静寛院宮は祐天寺に母観行院の病気平癒の祈祷を仰せ付けるなど、祐天寺とも深い関係がありました。
この年に静寛院宮の50回忌法要が盛大に執り行われた背景には、「治安維持法」の公布や満州鉄道守備のための出兵により世相があわただしくなる中、静寛院宮を賢婦として高揚することで、婦女子を啓蒙する目的があったとされています。
10月4日、作家としてだけではなく映画製作者としても活躍していた直木三十三(のちの三十五)の『大衆文藝 新作仇討全集』第2巻が興文社より出版されました。本書の中で三十三は「鏡山という芝居は私の大きらいな物の一つである」として歌舞伎の1ジャンルである「鏡山物」について語っています。
「鏡山物」の概略は、武家の屋敷で奥勤めしていた女中の尾上が、先輩の岩藤に草履で打たれたことを恥じて自害し、尾上の下女お初が岩藤を討って主人の恨みを晴らすというものです。
「鏡山物」には2つの実説があり、そのうちの1つの『女敵討松田系図』によれば、自害した女中のそばには祐天上人の名号が掛けられていたということです。
10月15日、俊興が赴任している朝鮮の龍山教会所の本堂が完成しました。大念寺の誕生です。俊興はこの年の3月25日に准讃教に叙せられ、11月4日には大念寺の初代住職となりました。
11月、前橋大蓮寺(群馬県前橋市)の祐天上人名号付き地蔵菩薩石像(文政9年「祐天寺」参照)の台座が再造されました。この台座は3段になっており、この年に再造されたのは最下段の台座です。台座の正面には「有縁無縁三界萬霊」、右側面には石垣修復者の名前と「忍誉代」と刻まれています。忍誉とは、大蓮寺19世蓮池辨冏のことです。
明治天皇の第3皇子として明治12年(1879)に生まれた大正天皇は、生まれつき体が弱かったうえ、即位後は多忙な公務と第1次世界大戦への参戦などによる心労が重なったことから、たびたび体調を崩されていたようです。そのため、大正10年(1921)に皇太子裕仁親王(のちの昭和天皇)を摂政に任命して以降は、公務に復帰することはありませんでした。
そして、この年の11月に肺炎を起こし、12月15日に宮内省から「天皇陛下御異例」が発表されると、天皇の病気回復を祈る国民が宮城二重橋前に詰め掛けました。さらに帝国劇場や歌舞伎座が興行を中止し、飲食店などが営業を控えるなど、日本国中が自粛ムードに包まれました。
祐天寺は生母である二位の局の菩提寺であることから、平時より毎日天皇の健康を祈願しており、病が重くなってからは多くの檀信徒とともにひたすら平癒を祈願しました。しかし、葉山御用邸(神奈川県三浦郡)で療養されていた大正天皇が回復されることはなく、最期は貞明皇后の配慮により御用邸に呼ばれたご生母に見守られながらお隠れになられたと伝えられています。
12月25日、崩御の報せを受けた祐天寺では尊牌を本堂に安置し、香花や供物を供えて菩提を弔いました。さらに、新宿御苑(新宿区)で大喪の儀が執り行われた翌2年(1927)2月7日には、本堂の尊牌前を荘厳して遙拝所を新設したほか、寺内の者5人がご霊柩の通り道で奉拝したということです。また、葬場殿の儀に合わせて祐天寺の梵鐘を撞き、奉悼の意を表しました。
歌舞伎座の8月興行で『真景累ケ淵』が上演されました。脚色を木村錦花、舞台監督を河竹繁俊、舞台装置を佐原包吉が担当し、興行期間中には歌舞伎座2階の広間で幽霊画の展覧会も開催され、連日大入りでした。
もとは三遊亭圓朝が安政6年(1859)に口演した怪談噺ですが、すでに明治31年(1898)には久保田彦作の脚色で歌舞伎として初演されていました(明治31年「出版・芸能」参照)。今回の脚色を担当した錦花は、舞台監督たちを引き連れて下総の羽生村(茨城県常総市)へ赴き、その土地の旧家を訪ね歩いて得た見聞をもとに脚色したそうです。
『真景累ケ淵』が好評を博したことから、翌昭和2年(1927)の8月興行ではその発端部分を再び錦花が脚色し、『発端真景累ケ淵』と題して上演しました。これは「四軒長屋」の場を最初は隠して1軒ずつ見せ、最後に4軒全体を見せるという映画的手法とも言える演出がおもしろいと評判になりました。
ただし、現在上演されている『真景累ケ淵』は、大正11年(1922)に竹柴金作が脚色し、6世尾上梅幸(「人物」参照)の豊志賀と、6世尾上菊五郎の新吉が人気を博した舞台の台本が基本となっています。
明治3年(1870)~昭和9年(1934)
名女形として明治後期から昭和初期に掛けて活躍した尾上梅幸は、本名を寺島榮之助と言い、明治3年に名古屋で生まれました。実父は3世尾上菊五郎の孫の朝次郎と言われています。梅幸は名古屋の歌舞伎劇場で振り付けを一手に収めていた初世西川鯉三郎のもとで幼い頃から舞踊を習い、明治9年(1876)には西川榮之助の名で初舞台を踏みました。
明治15年(1882)に12歳で5世尾上菊五郎の養子となり、同18年(1885)には尾上榮之助の名で東京の舞台を勤めます。5世菊五郎のもとで修業を積み、その相手役を勤めることで江戸前の芸の本質を体得していきました。そして、明治24年(1891)に5世尾上榮三郎を襲名。菊五郎家の「家の芸」である「新古演劇十種」にも精通し、同時代の女形を代表する役者として成長していきます。この榮三郎時代の梅幸について日本画家の鏑木清方は「世にも美しい女形の姿、元禄頃の野良評判記の挿絵でも見るやう」と評しました。
明治36年(1903)2月に5世菊五郎が亡くなると、翌月の歌舞伎座興行は5世菊五郎の3遺子の襲名披露狂言となりました。9世市川團十郎の口上によって尾上丑之助改め6世尾上菊五郎、坂東英造改め6世尾上榮三郎とともに、華々しく6世尾上梅幸を襲名します。梅幸は『切られ与三』のお富などの色気のある世話物と、『色彩間苅豆』(大正9年「出版・芸能」参照)の累や『四谷怪談』のお岩などの幽霊物を得意として特に15世市村羽左衛門との共演で人気を博し、歌舞伎ファンを熱狂させるようになっていきました。
明治44年(1911)の帝国劇場開場とともに梅幸は座頭に迎えられ、そこで立女形として活躍し、新作にも挑戦する一方で女優劇の指導も行いました。著書の『梅の下風』は女形芸談の白眉とされています。
大正9年(1920)に復活上演した『色彩間苅豆』は梅幸・羽左衛門の当たり役となり、昭和元年にはその大成功を記念して祐天寺にかさね塚(「祐天寺」参照)を建立したほか、『真景累ケ淵』(「出版・芸能」参照)で豊志賀を演じました。梅幸の豊志賀は、のちに7世梅幸が「豊志賀の顔のつくりが凄惨そのものだった」と語っており、本物の幽霊と見紛うばかりの恐ろしさだったようです。
梅幸はとにかくお酒が大好きで、晩年に脳溢血で倒れてからも「金光さまの教えによると、風呂に入ったあとお神酒を身体へ吹きかけるとよい」という話を逆手にとって、妻が用意したお神酒を体へは掛けずに飲んでしまい、さらに要求する量がだんだん増えていったそうです。
昭和9年11月4日、歌舞伎座で『ひらがな盛衰記』の延寿役を勤めていた梅幸は、3度目の脳溢血に襲われました。2日間は楽屋で安静にしてから赤坂の自宅へ帰り、見舞客一人ひとりと握手をして、9日に息を引き取りました。享年65歳でした。