明顕山 祐天寺

年表

昭和10年(1935年)

祐天寺

生家、売却か

1月15日、『福島民報』が「祐天上人の生家が800円で売りに出された」と報じました。その記事は「売りに出されたのは、祐天上人の子孫で現四倉町長の新妻盛氏の隠居所となっている寛政年間に建てられた豪壮な旧家で、建築史上にも保護されるべきもの、まして祐天上人の生家という由緒を持つものが売りに出されたのはいたく惜しまれる」と伝えています。

しかし、同月30日付の同新聞は「祐天上人の生家は建築美の特徴をことごとく備えているため好事家や建築業者の垂涎の的となり、しばしば譲って欲しいとの希望があったことが伝わって、売りに出されたと勘違いされたのだろう」と報じました。

参考文献
福島民報(1935年1月15・30日付)

消防組、纏額を奉納

1月、東都市部消防組より纏の額が祐天寺に奉納されました。この額には40種の纏の彫刻がはめ込まれており、本堂に掛けられています。

参考文献
東都市部消防組寄進の纏額

『祐天上人実伝』のパンフレット、発行

2月20日、田村周助は前年に出版した『祐天上人実伝 附録 天慶の乱』のパンフレットを発行しました。これには本書を記すに至った経緯や、近日発刊予定の『羽生村累の実録』の広告文などが載っています。

参考文献
『祐天上人実伝 附録 天慶の乱』パンフレット(田村周助、田村長流出版部、1935年)

千仭墓、改葬

2月、岡千仭の墓が芝宝松院(港区)より祐天寺に改葬されました。

千仭は号を鹿門と言い、幕末から明治に掛けて活躍した漢学者です。天保4年(1833)に仙台藩(宮城県)藩士の子として生まれ、藩校養賢堂で学んだのち、江戸の昌平坂学問所で佐藤一斎と安積艮斎に師事しました。

その後、大坂で私塾「雙松岡塾」を開き、慶応2年(1866)には養賢堂の指南役として仙台藩に迎えられましたが、戊辰戦争に際して奥羽越列藩同盟に反対したことから投獄されます。

明治維新後は太政官修史局協修や、東京府学教授、東京図書館長などを歴任し、私塾「綏猷堂」を開いて教育活動に力を注ぎ、多くの門人を育てました。大正3年(1914)2月18日に82歳で亡くなりました。

参考文献
「二人の鹿門」(中島正伍、『THE祐天寺』25、祐天寺出版部、1993年)

勝雄、光琳寺住職に

3月、のちに祐天寺20世となる井上勝雄が増上寺にて宗戒を受けました。また同月、大正大学専門部仏教学科を卒業し、4月1日に同大学の文学部浄土学科へ進学しました。

勝雄は宇都宮光琳寺(栃木県宇都宮市)25世で伯父の井上教運の弟子でしたが、教運が昭和7年(1932)3月10日に遷化していたことから、この年の5月29日に黒羽常念寺(栃木県大田原市)27世で光琳寺26世を兼務していた父の福田大冏に師僧替えします。翌30日に律師となり、6月14日には得業を授与されました。そして、10月4日に勝雄は光琳寺27世となります。

参考文献
『勇猛精進』

日曜教園、開設

5月5日、俊興は祐天寺日曜教園を開設しました。本教園は『般若心経』のお勤めに始まり、大正大学の学生たちが上演する紙芝居や人形劇などを通して児童たちの教化に努めました。本教園の園歌はのちに東海学園中学(愛知県名古屋市)校長となる松涛基道(基)により作詞・作曲されました。

参考文献
『俊興上人の業績』

林間学校、開校

8月、俊興は祐天寺の境内において林間学校を開校しました。祐天寺の林間学校はこの年から昭和18年(1943)頃まで、毎年10日間ほどの日程で開催されていました。

また、この年から盆踊りが始まりました。まだ櫓太鼓は備えていませんでしたが、ろうそくを入れた提灯や回り燈籠などで飾られた書院の大玄関前の広場で、日曜教園の児童たちが踊りました。

参考文献
『俊興上人の業績』

『目黒区大観』出版

8月16日、『目黒区大観』が出版されました。本書の口絵には祐天寺の写真が掲載され、本文では祐天上人の事績をはじめ、祐天寺の歴史や諸堂、宝物、石塔などが紹介されています。

参考文献
『目黒区大観』(村上三朗、目黒区大観刊行会、1935年)

消防組各区総代、額を奉納

9月、東京市部消防組の各区総代たちから祐天寺に額が奉納されました。各組の纏の彫刻の下にはそれぞれ、石井市五郎、榊太郎吉、平井亀吉、長谷川國五郎、松島彦八、赤堀長次郎、大場吉五郎ら総代の名前が彫られています。

参考文献
東京市部消防組各区総代奉納の額

穂庵・百穂作品展、開催

10月7日から23日に掛けて、東京府美術館(現、東京都美術館)において日本画家平福穂庵・百穂親子の作品展が開催され、穂庵作の「祐天上人霊夢」も出展されました。

穂庵は秋田県角館の出身で、徹底した写実の技術が特徴的な画家です。穂庵の息子である百穂は絵画における写実主義・自然主義を唱え、また、アララギ派歌人としても活躍しました。穂庵は明治23年(1890)に、百穂も昭和8年(1933)に亡くなっており、この作品展は百穂と生前に親交の深かった画家で美術雑誌『中央美術』主宰の田口掬汀が、遺作展として主催したものです。

「祐天上人霊夢」は明治22年(1889)に制作されたもので、祐天上人が成田山新勝寺において参籠した際に、不動明王からの剣を呑んだという有名な伝説を基に、火炎を背負った明王とそれに対峙する祐天上人との姿が生き生きと描かれた大作です。現在、この作品は秋田県立近代美術館に所蔵されています。

参考文献
『中央美術』第26号(田口掬汀編、中央美術会、1935年)

西国三十三観音、出開扉

10月10日から11月11日に掛けて、関東では初めての西国三十三札所の観世音菩薩出開扉が行われました。京浜・東横両電鉄沿線の各霊刹が奉安所(会場)となり、祐天寺では地蔵堂が第30番札所の宝厳寺、稲荷堂が第31番札所の長命寺、阿弥陀堂が第32番札所の観音正寺の奉安所となりました。祐天寺の表門には出開扉の開催を示す立て札のほか、出開扉順拝会員申込所の立て看板が掲げられました。

この出開扉を記念した『西国三十三霊場納経帖』と絵はがきセットが発売され、祐天寺の本堂も絵はがきとなりました。

参考文献
『東京出開扉記念寫眞帳』(西国三十三札所観世音菩薩東京出開扉奉賛会編集・発行、1935年)、西国三十三札所出開扉記念絵はがき

『祐天上人記』の映画化、決定

11月12日、石城郡(福島県いわき市)の新聞各紙が「映画『祐天上人記』が製作される」と報じました。この映画は、祐天上人生家の菩提寺である最勝院の31世阿部崇順が書き下ろした祐天上人の一代記が基となっています。

平町(同市)の高木喬が映画化を企画し、東洋映画社の大澤恒夫を監督に迎えました。さらにハリウッドで活躍していた早川雪洲が祐天上人を演じることとなり、善長役は2世市川猿之助、檀通上人役は諸口十九というように出演者に当時の一流スターを集め、エキストラやスタッフに延べ2、000人を動員し、「2万円の巨費を投じる大作となる予定」と新聞は伝えています。

12月23日、撮影隊40人がライト50台とトーキー用カメラ、録音機などとともに平町に到着し、翌24日から3日間の予定で最勝院や四倉周辺、新舞子、松ケ岡公園などで祐天上人の幼少期のロケーション撮影が行われました。

三之助(祐天上人の幼名)を久保田龍男、父の新妻小左衛門を美澤安孝、母のお稲を明清江が演じ、郷土色豊かな映像となるようにと地元青年団が出演してじゃんがら念仏踊りを披露するなど、翌年1月中旬頃の完成を目指して撮影が進められました。

参考文献
『磐城時報』(1935年11月12日・12月11日付)、『常磐毎日新聞』(1935年11月12日・12月24日付)、『新いわき』(1935年12月11日・24日付)、『磐城新聞』(1935年11月12日・12月11日付)

学寮、新築

12月4日、俊興は祐天寺境内に学寮を新築するため、浄土宗務所に新築許可願と設計図面を提出しました。その設計図面によると学寮は木造で2階建ての部分と平屋の部分があり、僧侶たちが勉強しやすいように、5〜8畳の9つの部屋に区切られていたようです。学寮は現在の寺務棟の左前から祐光殿辺りに建てられ、改築を繰り返しながら、その建物の一部は平成12年(2000)まで使われていました。

参考文献
『学寮新築許可願』

祐海名号付き半鐘を消防団で使用

延享元年(1744)に鋳造され、大垈村地蔵庵(東村山市。享保14年「祐天寺」・「説明」参照)に吊るされていた祐海名号付き半鐘が、この年から自治消防団で使用されることになりました。

戦時中にはこの半鐘が空襲警報の代わりとして使われていたため、金属供出を免れていました。現在は地蔵庵近くの消防団分団詰所脇に設置された火の見櫓に吊るされ、保存されています。

参考文献
祐海名号付き半鐘、「祐天寺役僧書状について」(小峰孝男、『東村山市史研究』第2号、東村山市史編さん委員会、東京都東村山市、1993年)

寺院

月かげ幼稚園に改称

4月、明照保育園が月かげ幼稚園という名称に変更されました。同園は、明治44年(1911)に渡辺海旭が中心となって深川区平野(江東区)に設立した浄土宗労働共済会(のちの明照社会館)の中に、託児場として大正6年(1917)に設立されたことに始まります。のちに明照保育園と改称されたあと、月かげ幼稚園となりました。本園の園長には、海旭とともに仏教社会事業を行っていた中西雄洞が就任しました。第2次世界大戦によって明照社会館が全焼し、月かげ幼稚園も休園に追い込まれますが、昭和23年(1948)には再開されます。

参考文献
「浄土宗保育の歴史(1)」(安井昭雄、『日本仏教教育学研究』10、日本仏教教育学会編集・発行、2002年)
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