1月16日、俊興は檀家の山本千代と結婚しました。結婚式は本堂の祐天上人真影前において執り行われ、媒酌人は檀家総代の島崎七郎夫妻が務めました。俊興は開教副使として朝鮮に赴任していたため、結婚にあたって10日間の休暇を取り、1月14日に帰着したばかりでした。俊興は妻とともに17日に朝鮮へ旅立ちました。
2月20日、俊興は輔教に叙せられました。また、3月7日には大僧都に、31日には擬講にも叙せられました。のちに俊興は父の愍随に手紙を送り、開教院より輔教叙任辞令を受け取り、全力を挙げて任務に尽くしていることなどを伝えています。
3月4日、祐天寺前住職巖谷愍随(祐天寺17世)は仏教中央会館建設会に入会し、その際に100円を寄付しました。仏教中央会館は宗派を問わず仏教関係の会議や講演会などを開催できる場所として、神田(千代田区)に建設されます。そして、この年の11月3日に開館式が挙行されました。
3月30日、和田村念仏堂(杉並区。明和5年「祐天寺」参照)が祐天寺末から西方寺末へ変更されました。さらに、翌11年(1922)には下谷区入谷町(台東区)の東運寺と合併し、寺号を念仏山東運寺と改めます。
8月8日、俊興の弟である牧野祐生(明治42年「祐天寺」参照)が逝去しました。法名は浄誉心光祐生法子です。祐生は明治38年(1905)9月20日に愍随と牧野サトの間に3男として生まれました。
8月25日、祐天寺は増上寺大殿の瓦を葺き替える資金として100円を寄付しました。
9月17日、長篇講談第74編『赤格子九郎右衛門 小幡小平次』が博文館より出版されました。本書は、猫遊軒伯知の口演を浪上義三郎が編集したものです。伯知は松林伯圓の弟子で松林伯知とも称し、明治から昭和初期に掛けて活躍した講談師でした。
本書の第8席目に「祐天上人小平次の怨霊を退散せしむる事」という題の話が載っています。祐天上人が増上寺大僧正のとき、目黒にある市川団十郎の寮の近くを通り掛かった際に厠を借りました。そのとき、上人は団十郎の母が大病を患って伏せっていることを知り、病の原因が小平次の怨霊であることを見抜きます。上人は小平次の怨霊を祈祷によって退散させ、さらに翌日には将軍家の侍医を遣わし、団十郎の母の病を全快させたという内容です。
この年、祐天寺2世祐海の名号軸を仕立て直しました。