1月30日付けの『浄土教報』に、「増上寺興隆の一策」と題して祐天寺を増上寺の別院とする案について書かれた記事が掲載されました。その記事によると、神林周道をはじめとする有志たちは、祐天寺を増上寺に併合して増上寺住職が祐天寺の住職を兼務し、祐天寺には副住職を置き、祐天寺の資財を増上寺の教化費に充てることを提案したようです。さらに、そのために祐天寺前住職の巖谷愍随(祐天寺17世)を将来の増上寺住職に、俊興を副住職に推すという条件まで付していました。
しかし、この案に対して記事は「土地の併合と法主問題とを交換条件にした点の不純さが策に過ぎるものとして問題にされぬのであろう」とし、さらに「問題の祐天寺土地と寺院特別賦課税説」と題する記事を掲載しました。その記事は「かつて政府が課した『戦時特別税』のように、財産のある寺院には特別税を課すなど、今後は寺院財産の運用について社会的解決の道を探るべきだ」と意見をまとめています。
3月6日、愍随は「宗侶諸師の諒解を求む」と題する論考を『浄土教報』に掲載し、「増上寺興隆の一策」の案に対して反論しました。この論考は「祐天寺併合不可能の理由」「予が祐天寺を死所と定め居る理由」「祐天寺の資産状態及び将来の希望」の3項目から成ります。
さらに4月10日には、一東京僧(匿名)の寄稿した「大寺院相続の問題」と題する論考が『浄土教報』に掲載されました。この論考では祐天寺を増上寺の別院とすることについての反対意見が述べられています。
この年は年初から、祐天寺が所有する土地などの財産について何かと取り沙汰されたことにより、愍随にとってつらい日々が続きました。
3月5日、愍随は第25次定期宗会において竹石耕善、細井明道とともに宗務所委員に任命されました。以後、愍随は遷化する昭和3年(1928)まで毎年委員に任命されます。
5月15日、高橋寿恵の案内記『東京郊外楽しい一日二日の旅』が九段書房より出版されました。祐天寺は本書の「南郊の部」に「目黒、品川附近」の名所の1つとして紹介されています。目黒大円寺、目黒不動、甘藷先生(青木昆陽)の墓を見学してから祐天寺に至り、その後は品川の御殿山や東海寺、海晏寺へと進むルートが勧められています。
5月21日、『東京朝日新聞』に「祐天寺裏のけやきの木が夜鳴きをする」という記事が掲載されました。このけやきの木は当時すでに樹齢270年を経た古木で、この年の1月から「毎夜12時から明け方へ掛けてちょうど赤子の泣くような声を出す」と評判になったそうです。原因はいまだに不明です。
6月6日、祐天上人墓が「史蹟名勝天然紀念物保存法」に基づいて東京府の史蹟に仮指定されました。仮指定とは、内務大臣が史蹟名勝天然紀念物に指定する前に、地方長官が必要に応じて指定することです。この仮指定は昭和17年(1942)に解除され、東京府の旧跡に指定されます(昭和17年「祐天寺」参照)。
9月18日、人生哲学研究会の編集による『高僧傳』上巻が越山堂より出版されました。本書には祐天上人の伝説も収録されており、「祐天上人の俗姓は佐々木、箕作善内の子である」とされています。この人物設定は江戸時代後期の読本『祐天上人一代記』にならったものです。
9月20日から26日に掛けて、磐城最勝院(福島県いわき市)で入仏式が盛大に執り行われました。明治35年(1902)の大火から23年の年月を経て、この年の8月には県内随一の大きさを誇る間口12間半(約23メートル)、奥行9間半(約17メートル)の本堂が再建されました。
同期間中には入仏式のほかに五重相伝会も執行され、その結縁者は2、583人に及んだと伝えられています。1日2回の祐天上人像開扉前後に行われた念仏の称名の際には、感涙にむせぶ人々の姿が見られたそうです。
入仏式に先立ち、檀家の猪狩利吉は祐天上人像の宮殿を修繕し、塗り替えました。この宮殿は文化7年(1810)2月に、祐天寺9世祐東が最勝院22世良仰悦恩を通じて同寺へ寄付したものです。
9月25日、愍随は増上寺79世道重信教大僧正より院家に列せられ、明顕心院の号を授かりました。多年にわたる増上寺護持の功績をたたえられてのことです。また、同日、祐天寺後中興の号も授かりました。
3月に日本で初めてラジオの試験放送が行われ、予想以上の好聴取率を収めたことから、東京放送局が設立されました。5月から一般放送が始まり、徳の高い人の談話を放送することが企画されました。そして、宗教家として第1に指名されたのが増上寺79世道重大僧正です。
6月14日、道重大僧正は「精神復興」と題する法話をラジオで行いました。関東大震災(大正12年「事件・風俗」参照)から2年が経ったことから、精神的復興を主題とした内容でした。
「今日は増上寺さまの御親教がラジオで聴けるそうだ」と話題になり、人々はラジオに聴き入ったということです。当時のラジオ放送受信加入者は10万人ほどでした。