2月28日、祐天寺前住職の巖谷愍随(祐天寺17世)は山下現有浄土宗管長より正僧正に叙せられました。
3月1日、雑誌『女性改造』第3巻第3号から芥川龍之介の随筆「僻見」の連載が始まりました。齋藤茂吉、岩見重太郎、大久保湖州、木村巽齋らについて、龍之介が私見をつづったものです。
龍之介は、狒狒退治や山賊退治などの武勇伝で有名な岩見重太郎について書いた第4号の中で「僕の岩見重太郎を知つたのは本所御竹倉の貸本屋である(中略)國定忠治を知つたのも、祐天上人を知つたのも、八百屋お七を知つたのも(中略)伝説的人物を知つたのは悉く貸本屋である」と懐古しています。
当時の貸本屋では実録物が人気を集めており、『祐天上人一代記』が大手の貸本屋の目録に載っていることから、よく読まれていたことがわかります。
3月31日、祐天寺の寺格が独礼4等から独礼6等に変更されました。
4月4日、財団法人宗勢復興後援会が創立され、愍随はその理事に就任しました。宗勢復興後援会とは、関東大震災で罹災した寺院や、その他の事業の復興を後押しする目的で組織された財団です。愍随はこの年から昭和3年(1928)まで理事を務めました。
7月1日、帝国キネマ演藝株式会社が製作し、中尾史録が監督した映画『累ケ淵』が浅草遊楽館で公開されました。莨売り新吉を尾上紋十郎、深見新左衛門を嵐璃徳、その娘おしがを小阪照子、師匠豊志賀を松枝鶴子、その父宗悦を嵐笑三が勤めました。残念なことに内容はわかりませんが、配役名から三遊亭円朝作の『真景累ケ淵』を題材とした作品だと考えられます。
また、9月20日には浅草松竹館で松竹キネマ株式会社が製作し、枝正義郎が監督した映画『累の恋』が公開されました。絹川村与右衛門を実川延松、かさねを東愛子、村の若者を嵐しげ代、お菊を橘喜久子、その母お崎を芦辺富子が勤めました。この映画は『死霊解脱物語聞書』を題材とした作品だと考えられます。
前年から累物の映画化が続いているのは、大正9年(1920)に6世尾上梅幸らが『色彩間苅豆』を復活上演(大正9年「出版・芸能」参照)して以来、累物ブームが続いていることの現れでしょう。
8月29日、海外布教のため朝鮮に渡った俊興が開教使に昇格しました。
9月10日、村上三朗が編集した『目黒町誌』が東京朝報社より出版されました。本書の「寺院」の章に、祐天寺について13ページにわたって記述されています。その中に「祐海上人の遠慮」という項があり、祐海が「強いて与えられるもののほかには朱印地を受けようとせず、檀家も持たず、善男善女からの浄財だけを蓄えて100両に達すると土地を買い求めるよう定めていた」と記されています。
11月15日、磯ヶ谷紫江の『墓碑史蹟研究』第1巻が墓碑史蹟研究発行所より出版されました。本書の「政岡の墓と祐天上人墓」という項には、祐天上人墓のほかに、正覚寺(目黒区)の政岡(三沢初子)と、長泉院(同区)の松崎慊堂の墓が紹介されています。
祐天上人墓について「左手の墓地中にある圓形の五輪塔であるが、震災の為め圓形はくづれ落ちてゐた」と書かれており、祐天上人墓も関東大震災の被害を受けていたことがわかります。
この年、大阪市の都市計画に伴って源正寺(大阪市阿倍野区。宝暦11年「祐天寺」参照)の跡地が大阪市に買収されました。移転保証金は寺地1、000坪に対して50万円でした。
源正寺は貞享4年(1687)に祐天上人を開山として東区上本町(大阪市中央区)に創建され、宝暦11年(1761)に祐天寺末となった寺院です。明治維新後は一時衰退したものの徐々に繁栄を取り戻し、明治22年(1889)には竜宮造りの楼門が築かれました。しかし、大正12年(1923)に本堂をはじめとする諸堂宇すべてを現在地の阿倍野元町に移しました。
その跡地には都市計画の一環により大軌電車(近畿日本鉄道)の駅を建設することになり、大正14年(1925)に上本町駅が造られ、現在は近鉄百貨店を併設するターミナル駅となっています。
4月8日、『大正新脩大蔵経』の第1巻が大正一切経刊行会から刊行されました。本書は大正2年(1913)に設立された同刊行会の高楠順次郎と渡辺海旭が監修を務め、小野玄妙が編さんに携わりました。正編55巻、続編30巻(日本撰述29巻、敦煌写本1巻)、図像部12巻、昭和法宝総目録3巻の計100巻から成っており、昭和9年(1934)まで制作が続けられました。
この『大蔵経』は、増上寺所蔵の『高麗版大蔵経』(高麗で1020年頃から1087年に掛けて開版されたが、1232年にモンゴル軍によって版木が焼かれたため、再版されている)を底本として、宋・元・明版の各大蔵経をはじめ日本各地に所蔵されていたさまざまな漢訳仏典との校合を行ったうえで編さんされました。さらに、サンスクリット語やパーリ語原典のあるものは対照を行っています。敦煌(中国甘粛省北西部の都市)などから出土した古写経も収録し、中国と日本の撰述書を多数増補した漢訳大蔵経です。現在でも漢訳仏典の最高峰と位置付けられています。