4月、善光寺(長野県長野市)本堂の屋根の葺き替えを行ったところ、棟裏より祐天上人真筆の名号額が発見されました。この額の大きさは縦9尺(約3メートル)、幅3尺(約1メートル)です。
5月3日、祐天寺前住職の巖谷愍随(祐天寺17世)は、大正7年(1918)12月から勤めていた浅草九品院(関東大震災後に練馬区へ移転)の住職を退きました。
5月13日、長篇講談第94編『祐天上人』が博文館より出版されました。講談師・寶井琴窓の口演を今村次郎が編集したものです。付録に『品川問答』も収録されました。
5月23日、帝国キネマ演藝株式会社製作の映画『新累物語』が公開されました。フィルムが現存していないため内容は不明ですが、日本映画データベースによるとモノクロフィルムの無声映画だったようです。監督は中川紫郎、出演者は嵐璃徳、阪東豊昇、嵐笑三、実川延松らでした。
紫郎は大阪歌舞伎の嵐璃徳一座の座付き作家でしたが、大正9年(1920)5月に帝国キネマが設立されると一座とともに入社し、映画『大江山酒呑童子』で監督としてデビューしました。時代劇にとどまらず小説の映画化を試みるなどして、帝国キネマに新風を吹き込んだ名監督として知られています。
6月9日、愍随は仏教専門学校(現、佛教大学)へ校舎の改築資金として200円を寄付しました。
7月1日、俊興が赴任先である朝鮮開教区の区会議員に当選しました。
7月12日、増上寺79世の晋山式を終えた道重信教が、晋山のあいさつのため祐天寺を参詣しました(「寺院」参照)。
9月1日、関東大震災により祐天寺も甚大な被害を受けました。
同月26日に祐天寺が浄土宗臨時救護部に提出した被害報告には「地蔵堂の水屋全壊」「表門屋根瓦墜落」「鉄の大小用水器および石灯籠、全部転倒」「大小亜鉛の通樋破損」「全堂舎が多少の破損、傾斜」「墓碑ほとんど倒落、多少の壊折破損」と記されています。また、庫裡を応急修理したうえで、その一部を縁故者20人の避難所とし、さらに一部を目黒実科女学校(現、都立目黒高校)の校舎として貸与したことなども記されています。
9月1日、伊豆弥陀山(静岡県賀茂郡)の祐天上人名号石塔が、関東大震災により倒れて海に落ちました。この名号石塔は、参詣する人々が日課百遍の念仏を称える十万人講に入ることを願って、享保3年(1718)に建立されたものです(享保3年「祐天上人」参照)。海に面した弥陀山の断崖中腹に建ち、海から拝せるようになっていました。
のちに小稲(同町)の谷幸作が私財を投じて元の場所へ再建しましたが、昭和37・38年(1962・63)頃に台風により同様の被害を受けました。そのため手石(同町)の大年米吉らの尽力で、元の場所より高い現在地に再建されました。
12月15日、東京府の都市計画の一環として進められていた環状線建設のため、祐天寺の土地の一部を売却しなければならなくなり、土地売却許可願を東京府に提出しました。売却により得られたお金は代替地購入まで一時銀行に預け、その利息は関東大震災により被害を受けた堂宇の修復に充てることとしました。
このとき祐天寺は目黒町の諏訪山と小川(現、上目黒3丁目付近)の田んぼの土地約800坪を売却しました。翌年の5月には代替地として、同町内の蛇崩(現、上目黒4・5丁目付近)や谷戸前(現、中目黒5丁目付近)の山林および畑の土地約1、260坪を購入しました。土地購入には土地売却で得たお金を充て、不足分は住職や総代たちが日々の生活費を節約してためてきた積立金で補ったことにより、負債はなかったそうです。新しく購入した土地は宅地に造成して貸地とし、その収入を堂宇の営繕代や経常費として活用しました。
12月17日より2日間、関東大震災によって罹災した寺院の復興を目的とした復興財団設立協議会が、浄土宗務所にて開催されました。この協議会で愍随は財団の理事に選ばれました。
この年、羽生法蔵寺(茨城県常総市)の祐天上人像が修復されました。この像は寛保元年(1741)7月15日に、祐天寺2世祐海が仏師竹崎石見に造らせたものです。胎内には祐海によって祐天上人の遺骨が納められており、修復の際に再封印されました。封印の包み紙には「何人タルモ開封スルコトヲ禁ス若破封スルトキ重罪ヲ受ルコト明也」と書かれているそうです。さらに、この祐天上人像は平成24年(2012)5月の法蔵寺本堂落慶に合わせて再修復されました。
6月、宇部松月庵(現、松月院。山口県宇部市)19世の道重信教が増上寺79世となり、翌年3月11日に大僧正となりました。当時の新聞の見出しには「田舎の住職が一躍大本山入り」と書かれましたが、門末が一致して大僧正に推挙したのです。高楠順次郎や大谷尊由といった浄土宗以外の僧からも道重大僧正は「学徳を備えた人物である」と評されました。
道重大僧正は大正14年(1925)9月1日、関東大震災の震災記念日に飛行機に搭乗し、京浜地区の上空から関東大震災殉難者の霊を弔うために法楽散華の追悼回向を行いました。特に仏教の民衆化に力を注ぎ、懇請に応じて全国各地で五重相伝や授戒会の戒師を勤めた回数は数百回に及ぶと言われています。また、海外での巡錫や来日した外国人への仏教講話などを行い、生涯にわたって教化に専念しました。昭和9年(1934)1月28日に発病し、翌日、79歳で遷化しました。