3月9日、俊興は庫裡増築の許可願いを東京府へ提出し、5月17日にその許可が下りました。この当時に庫裡と呼ばれていた建物は、現在の書院にあたります。明治41年(1908)にも増築していましたが、さらに入檀者が増えて法要の際の控え室が手狭になりました。そのため、この庫裡の横にあった納屋を移動させて空いた場所に37坪の庫裡を新築し、11月17日に完成しました。
7月18日、目黒村から俊興宛てに「道路開通ノ件」照会という手紙が届きました。村内の交通の利便性を高めるために、祐天寺の裏門から表門脇に通じる寺用道路を村道として使用させて欲しいという内容です。道路は祐天寺所有のままとし、裏門を残し、道路の左右に新設する下水路などの諸工事費はもちろんのこと、今後の修繕費も村が負担すると書かれています。
俊興は墓地に接する道であることから道幅を3間(約5.4メートル)とすることや、所有権が移転することがないことを確認したうえで、承諾する旨を回答しました。
9月18日、祐天寺の法類で浅草迎接院(関東大震災後、練馬区に移転)16世の藤木澤随が遷化しました。法号は柔蓮社輭誉光阿愚馨澤随です。10月、のちに祐天寺19世となる藤木随教が迎接院17世となりました。
11月、祐天上人生家の菩提寺である磐城最勝院(福島県いわき市)に再建される本堂の建築計画が決まり、起工式が行われました。
最勝院は明治35年(1902)のいわき大火により本堂をはじめとする諸堂宇を焼失し(明治35年「祐天寺」参照)、長く仮本堂のままでしたが、大正6年(1917)の祐天上人200回忌の折に、檀信徒たちから本堂再建の話が持ち上がりました。しかし、最勝院は翌7年(1918)から住職不在の状態となり、その話はなかなか進まなかったようです。それでもこの年の夏には、檀信徒が中心となって本堂再建の計画をまとめ、起工式までたどり着きました。12月には安養院(同県同市)から阿部順孝を最勝院30世として迎え、再建は順調に進むかに見えました。
しかし、大正12年(1923)に関東大震災が起きると、大工は帝都復興のため関東方面へ駆り出され、人手不足と工賃の高騰によって再建は困難を極めます。晒木綿1丈が30銭、大工手間賃が1日1円の時代に予算7万円で始めた再建工事が、最終的には10万円を要したと伝えられており、順孝はじめ檀信徒たちが直面した苦難は並大抵のものではありませんでした。県内随一の大きさを誇る最勝院本堂が完成するのは大正14年(1925)のことです(大正14年「祐天寺」参照)。
12月19日、通俗地理歴史協会が祐天寺を中心とする目黒方面の史跡調査を行いました。また、新宿一行院(新宿区)30世の八百谷順応が目黒実科女学校(現、都立目黒高校)の講堂において史跡調査の参加者を対象に、祐天上人に関する講演を行いました。
この年、俊興の赴任先である朝鮮開教区龍山教会所の土地を巡って払い下げ問題が起きました。当初、教会所の敷地は日本の陸軍の軍用地を無償貸与されていましたが、この年に付近一帯の土地が払い下げられることに決まりました。教会所の土地1、057坪5合は4、949円10銭で払い下げられることになりましたが、教会所はその購入資金の捻出に苦慮します。
思案した結果、教会所用地の半分を高く売り、その金で払い下げ地を購入して、残金で本堂建設費を確保するという解決策が講じられました。土地が競売に掛けられると、朝鮮総督府に7、000円、教会所に5、275円という金額で信徒の仐組が落札します。その後、朝鮮総督府が1、500円の地代増額を要求してきますが、仐組が教会所への寄付金という名目でそれを肩代わりしました。この土地の払い下げ問題は大正15年〔昭和元年(1926)〕に決着します。