3月25日、俊興は宗教大学(現、大正大学)研究科第2学年を卒業しました。卒業式には知恩院79世山下現有大僧正の代理として、増上寺77世堀尾貫務大僧正が臨席されました。まず卒業生と参列者一同で「月影」を合唱したのち、卒業証書が授与されました。
4月9日、大正天皇生母の二位の局が、母の安靖院殿(明治24年「祐天寺」参照)の祥月供養のため祐天寺を参拝しました。二位の局は午後1時頃に自動車で祐天寺に到着され、しばらく前住職の巖谷愍随(祐天寺17世)と談話したのち、本堂にて営まれた法要に参列されました。法要後には愍随、俊興らと墓地を参拝され、境内の桜を愛でられました。
4月20日、高島平三郎が編集した逸話集『精神修養逸話の泉』第16編が、洛陽堂より出版されました。本書には「芭蕉祐天上人を信頼す」と題された逸話が収録されています。
5月1日、愍随は明治神宮奉賛会の通常会員となりました。明治神宮奉賛会とは、神宮造営のために寄せられた民間の寄付金と労働奉仕の取りまとめを目的として、大正5年(1916)に結成された組織です。この年の11月1日に明治神宮の鎮座式が執り行われました。
7月29日、愍随は山下現有浄土宗管長より、京都仏教専門学校(現、佛教大学)の移転・改築の事業を行う特別委員に任命されました。
9月29日、祐天寺の法類である雄谷俊良が44歳で遷化しました。法号は梵音海院昇蓮社龍誉上人欣阿寒苔俊良大和尚です。
俊良は明治10年(1877)5月10日、東京市深川区霊岸町(江東区)に加藤一明の次男として生まれ、明治20年(1887)に祐天寺16世霊俊のもとで得度しました。祐天寺で修行に励みながら浄土宗立第一教校(現、芝中学校・高等学校)に通い、卒業後は布教師として満州と朝鮮に赴任します。帰国後に小松川仲台院(江戸川区)30世となり、仲台院に隠居していた霊俊とともに仲台院本堂の再建に尽力しました。
明治45年〔大正元年(1912)〕には宗会議員に当選して「師一流の抱負と経綸を廻らして、議政壇上の闘士」として活躍したと伝えられています。その一方で増上寺布教師や浄土宗労働共済会理事として浄土宗の発展にも努めました。大正8年(1919)に深川霊巖寺(江東区)37世となりますが、在住わずか1年余りで遷化しました。
10月19日、俊興は朝鮮京城府の朝鮮開教区龍山教会所に開教副使として赴任し、同月25日付けで教会所主任に任命されました。龍山には日本の陸軍司令部と第20師団が駐在しており、軍事基地となっていました。浄土宗の教会所はそこの軍人たちへの布教のため、明治42年(1909)4月に開設されました。
俊興が渡鮮したこの年は、龍山消防団組長や大工らの協力を得て、観音堂と納骨堂の建設が決まりました。教会所では日本の寺院と同じように十夜法要、彼岸会、釈尊降誕会、盂蘭盆会、棚経、施餓鬼会などの年中行事が行われていました。
12月、浄土宗僧侶の山崎弁栄が創立した学校である光明学園に、「光明会」の本部が設置されました。光明会とは、弁栄が念仏三昧の実体験を通して唱えた「如来光明主義」を奉じる人たちの信仰団体です。弁栄が遷化したのち、その意志を継ぐ門弟・信徒により組織化されました。
大正3年(1914)に弁栄が発表した『光明会趣意書』には「如来という唯一の大御親を信じ、その慈悲と智慧との心的光明を獲得し、精神的に現世を通じて永遠の光明に入るの教団なり」とあります。
一般の人でも日常生活の中で行が実践できるように工夫されて、平易な言葉で書かれた『光明会礼拝式』を行の参加者全員で唱和するようにしています。自らが祈祷することによって、より一層自覚的に阿弥陀仏に結縁できるからです。弁栄は全国で教化を行い、浄土宗僧侶のみならず他宗派の僧侶にも影響を与えました。
歌舞伎座(中央区)12月興行で『色彩間苅豆』が72年振りに上演されました。5世清元延寿太夫の美声に合わせて15世市村羽左衛門が与右衛門、6世尾上梅幸(昭和元年「人物」参照)が累を江戸情緒たっぷりに演じて絶賛され、以後はこれが両優の当たり役となります。
『色彩間苅豆』は文政6年(1823)
に、『法懸松成田利剣』(文政6年「出版・芸能」参照)の2番目序幕として初演された清元の舞踊です。初演後は上演が途絶えていましたが、曲が良かったことから清元の曲として語り伝えられていました。歌舞伎座の大谷竹次郎社長が新橋芸妓の東会(技芸向上発表会)で踊られているのをたまたま見て上演を企画したところ、羽左衛門・梅幸からも話が持ち掛けられて実現しました。
本花道から累、仮花道から与右衛門が登場するという演出による2人の仲むつまじい色模様が、前半の見せ場です。観客は仮花道から現れた羽左衛門の美しさに、陶然として息がつけないほどだったと言われています。後半では、因果によって醜く変わり果てた累が、与右衛門に草刈鎌で惨殺されます。与右衛門はその場から逃れようとしますが、怨霊となった累が「連理引き」という見えない糸をたぐりよせるような独特な仕草で、与右衛門を引き戻す場面が見せ場です。女の妄執のすさまじさを見せ付けて幕となります。