1月1日、『浄土教報』に雑誌『縁山』が紹介され、その発行人として愍随の名前が載りました。『縁山』は明治38年(1905)7月10日に創刊された増上寺の月刊誌です。
2月26日、 第1次世界大戦の長期化により、世情を憂えた知恩院79世山下現有大僧正は国民精神の統一を奮い立たせるために伊勢神宮(三重県伊勢市)へ参拝することを決め、愍随に随行を命じました。愍随は山下大僧正とともに翌27日に伊勢神宮に参拝し、3月1日には明治天皇を祀る伏見桃山陵(京都市伏見区)にも参拝しました。山下大僧正は知恩院に帰山すると奉告大法要を厳修して浄土宗教徒が遵守すべき要制5条を公布し、全宗侶の振起善処を促しました。この大法要には各本山の法主や京都市の名誉職、仏教専門学校や女学校などの職員・学生、華頂婦人会員、信徒など約3、000人が参列しました。
3月7日、下楠宝泉寺(三重県多気郡)で祐天上人200年法要が営まれました。お練り供養には20人の稚児も加わり、宝泉寺境内は昼夜にわたって賑わったということです。このとき、宝泉寺では記念に赤大傘を新調しました。
3月15日、『近世実録全書』の第8巻が早稲田大学出版部より出版されました。本書には明治16年(1883)に出版された『祐天上人御一代記』(明治16年「祐天寺」参照)を「祐天上人」と改題した伝記が収載されています。
4月11日、縁山興勝会の設立総会が増上寺で開会され、愍随が理事に選ばれました。
縁山興勝会とは、明治42年(1909)に焼失した増上寺大殿の再建を後援する機関として設立された会です。設立時の総裁は徳川家達、副総裁は渋沢栄一(明治9年「人物」参照)でした。
6月12日、俊興が祐天寺18世となりました。俊興は明治30年(1897)7月2日、京都府綴喜郡多賀村(同郡井手町)の西福寺に愍随とサトの長男として生まれました。祐天寺を継いだこのときはまだ宗教大学(現、大正大学)在学中であり、この年の5月6日に権大僧都になったばかりでした。
俊興の晋山に伴って愍随は、8月3日に増上寺執事職を自動的に解かれ、6日にはこれまでの功労に対して増上寺77世堀尾貫務大僧正より僧伽梨1肩が贈られました。このあと愍随は、12月13日付けで浅草九品院(浅草誓願寺の塔頭で現在は練馬区に移転)の住職となります。
7月15日、鎌倉高徳院(神奈川県鎌倉市)に祐天上人の200年遠忌の記念として、報恩塔が建立されました。この塔には遠忌にあたり大仏殿の境内を拡張して4、000坪とするために寄付した人々の名前が刻まれています。その中には愍随・俊興師弟の名前もあり、愍随が世話人となっていたこともわかります。
9月2日、大正天皇生母の二位の局が兄の俊徳院殿の法要のため祐天寺に参拝しました。『浄土教報』には、愍随が以前祐天寺に下賜された明治天皇御座所用紫地鶴亀錦糸織大卓子掛(大正2年「祐天寺」参照)から謹調した五条袈裟を着用して法要の導師を勤めたことが書かれています。
この法要に際し、二位の局からは紅白の大打物菓子、生家からは焼香机や経机などが届けられました。そのほか、両陛下からの下賜品をはじめ親戚貴紳方からの生花なども献納され、「法式は荘厳崇高を極めたり」と同紙は伝えています。翌3日、愍随はお礼のため信濃町(新宿区)の二位の局の邸宅へ参上し、皇室と浄土宗に関する書物を献上したところ、大変喜ばれたということです。