1月12日発行の『浄土教報』に、巡教師の河野大徹を中心とする一行が、前年の12月1~11日に念仏の教えを説くために磐城地方(福島県いわき市)を巡回布教したと報じられました。祐天上人がじゃんがら念仏を発明したこと、同地では今もそれが受け継がれ「地方名物じゃんがら念仏」と称されていることなどが伝えられました。
1月、新調された祐天上人名号軸の箱に、増上寺77世堀尾貫務大僧正が「祐天大僧正真筆 六字寶號 壹鋪」と記しました。
3月15日、増上寺門末会議員の員数および選挙区割の改正に伴い、議員の補欠選挙が行われることとなり、愍随はその選挙長を務めました。
3月、大正2年(1913)に遷化した浄土宗開教師・八木快運の功績を讃える記念碑建立のため、愍随は2円を寄付しました。快運は明治40年(1907)から旅順で教化活動を行い、明治44年(1911)には奉天に出張所を新設して満州地域での教化に尽力します。しかし激務のため病に倒れ、29歳の若さで遷化しました。
4月13日、愍随は増上寺大殿の立柱式(建物を建てる前に柱を立て、建物の永世堅固を願う儀式)に執事として参列しました。まず初めに立柱報告法要が、次いで立柱祈願会が厳修されました。そして、大殿再建の建築顧問である伊東忠太による工事報告と、来賓祝辞をいただいてから立柱式が執り行われました。式のあとは消防組により木遣音頭の「御城内」と「千秋楽」が奉納され、愍随のあいさつをもって終了しました。
4月29日から3日間、磐城最勝院(福島県いわき市)において祐天上人200回忌開帳大法要が営まれました。祐天上人の生家新妻家の人々をはじめとする参詣者が群参し、仏餉(仏に供える米)は7、500袋にも及んだということです。
法要に際しては祐天寺のほか増上寺、芝宝松院(港区)、九品仏浄眞寺(世田谷区)、豊島専称院(現在は板橋区)などから祐天上人に関する宝物が出陳され、参詣者には最勝院29世望月信道の『祐天大僧正御伝略記』が施与されました。境内では田舎芝居の興行も行われ、『祐天記』などが演じられて大変な賑わいだったそうです。この記念すべき遠忌を迎えた最勝院の檀信徒たちは、明治35年(1902)に焼失した本堂・庫裡の再建を発起して協議を開始しました。
6月7日、三星與市が執筆した『祐天上人略傳』が浄土教報社から出版されました。本書は「出家学道」「出世化導」「隠棲入滅」の3章仕立てになっています。文末に「二百年後の吾々も、亦その行化の恩を空うせず、賢を見ては等しからんことを思ふて、勤めたきことである」とあり、祐天上人200年遠忌に向けて書かれたことがわかります。
7月2日、祐天寺が所有する土地を東京砲兵工廠目黒火薬製造所の火除け地としたいという申し出を受け、同製造所へ地所を売却することとなり、東京府に売却の許可を願い出ました。13日に許可が下りました。
7月7日、祐天寺15世祐道(新妻天随)が遷化しました。法号は得蓮社昇誉上人善阿愚随祐道天随和尚です。祐道は嘉永3年(1850)1月5日に生まれ、祐天寺14世祐真の弟子の真順の弟子となりました。明治13年(1880)12月4日に祐天寺住職となり、明治22年(1889)12月13日に退いたあとは、名瀬西蓮寺(横浜市戸塚区)の住職を勤めていました。
8月22日、増上寺において東都仏教婦人会の例会が開催され、雄谷俊良(祐天寺16世霊俊の弟子)が「祐天上人の一面」と題して講話しました。また、例会終了後は堀尾大僧正を導師として祐天上人200回遠忌法要が営まれ、祐天上人ご遺物の展覧会も行われました。
9月1日、祐天寺において堀尾大僧正を導師として祐天上人200回遠忌法要が盛大に営まれました。記念品として、檀信徒には「祐天大僧正法語」が印施され、随喜寺院には『祐天大僧正利益記』(文化5年「出版・芸能」参照)が贈られました。
また、表門前に建立された祐天大僧正二百回遠忌報恩塔の開眼供養も執り行われました。正面に「當寺開山祐天大僧正二百回遠忌報恩塔」、右側面に「西方六阿弥陀如来 第六番」(明治40年「祐天寺」参照)、「明照大師廿五霊場 第廿四番」と刻まれています。
明照大師(法然上人)の廿五霊場とは、法然上人の遺跡25か所の霊場のことです。法然上人の霊場は近畿地方に集中していて遠方の信徒は巡礼が難しいことから、安永7年(1778)に増上寺50世隆善が江戸に写し霊場を新設しました。このとき、祐天寺は第24番の金戒光明寺(京都市左京区)の写し霊場として第8番に数えられていましたが、その後に更改され、第24番となりました。
12月20日、最勝院29世信道が編集した『近世十大徳言行録』が浄土教報社より出版されました。本書は近世における10人の高僧の伝記を集めたもので、祐天上人のほか幡随意、弾誓、呑龍、忍澂、澄禅、無能、関通、法岸、徳本について書かれています。
1月、浄土宗務所より海外留学生に任命されていた矢吹慶輝が帰国しました。慶輝は大正2年(1913)、大学時代の恩師・姉崎正治がハーバード大学の客員教授として招聘されたのに伴い、その助手としてアメリカに渡りました。その1年半後に海外留学生に任命され、欧米各国のキリスト教事情視察と社会制度調査を命じられました。この背景には日清戦争後に農村から都市への人口流出が激増し、都市の劣悪な環境での生活や労働に苦しむ人々に対し、仏教はどのような救済をしていくかという課題がありました。
慶輝は大正4年(1915)からイギリスに渡り、その後、ドイツ、フランス、ロシアなど欧州各国の社会事業調査や宗教状況の視察を行って帰国しました。そして、この年の5月に、宗教大学(現、大正大学)に日本初の社会事業研究機関となる社会事業研究室を開設しました。