明顕山 祐天寺

年表

大正5年(1916年)

祐天寺

年始あいさつ

1月1日、愍随のほか都内各寺院の住職たち60人余りが増上寺に参集し、名刺交換会を行いました。まず、増上寺77世堀尾貫務大僧正を導師として、黒本尊前にて読経念仏一会を厳修しました。その後、参加者たちは松の間に移って年始のあいさつを交わし、道重信教朝鮮開教総監と椎尾辯匡博士(昭和20年「人物」参照)の演説に感服して増上寺大殿の再建に努める決意を新たにしました。

参考文献
『浄土教報』(1916年1月7日付)

隆寛、茨城巡教

1月8日、前年11月から茨城県の猿島、結城、北相馬などを巡教していた岩城隆寛〔のちの還国寺(文京区)住職〕が、東京に戻って所感をまとめました。隆寛は巡教中、絹川(鬼怒川)沿いの法蔵寺(茨城県常総市)にも立ち寄り、祐天上人の木像や、累得脱の念珠、累の墓などを見学し、次の歌を詠みました。

みたの名に かさねのうらみ
はれしてふ
こけむす寺に かげをとゝめて

参考文献
『浄土教報』(1916年1月28日付)、『浄土宗人名事典』

『澀江抽斎』連載

1月13日から5月18日まで『東京日日新聞』と『大阪毎日新聞』の両紙上に森鷗外の史伝小説『澀江抽斎』が連載されました。江戸末期に弘前藩(青森県)藩医で考証学者だった澀江抽斎と彼を巡る人々の生涯を、客観的手法によって書きつづったものです。

本書の「その二十三」に、抽斎に演劇の楽しさを教えた人物として登場する真志屋五郎作の家には、八百屋お七の形見とされる袱紗があり、その袱紗には祐天上人の名号が包まれていたという話が収載されています。この五郎作は剃髪して寿阿弥と名乗り、よく文章を書いていました。

鷗外は『澀江抽斎』の執筆完了後、抽斎について調べた過程で入手した五郎作の手記類を基に『寿阿弥の手紙』を執筆することにします。これには祐天上人の名号の話がさらに詳しく書かれており、そのくだりを読むと、鷗外自身がお七の袱紗に包まれた祐天上人の名号を実際に見たことがわかります。鷗外の記述によると祐天上人の名号は「中央に『南無阿弥陀仏』、其両辺に『天下和順、日月清明』と四字づゝに分けて書き、下に祐天と署し、華押がしてある。装潢には葵の紋のある錦が用ゐてある」というものだったそうです。

参考文献
『鴎外全集』16(森林太郎、岩波書店、1973年)

増上寺執事に就任

1月22日、愍随は山下現有浄土宗管長より増上寺執事に任命されました。前任者の中野教運が病に罹り、増上寺大殿再建の大任を果たすことが難しくなったためです。さらに、5月11日には伊豆七島別教区長に任命されました。また、10月24日には増上寺加行道場の行知事にも任じられ、その教務にあたりました。

参考文献
『浄土教報』(1916年1月14・21・28日付)、『経歴概記』

天住、遷化

3月7日、紫波来迎寺(岩手県紫波郡)36世天住が遷化しました。法号は光蓮社権少僧都良明上人天住大和尚です。天住は生前、大正2年(1913)8月12日に遷化した35世旭立と自分との合祀墓を建立し、その墓に祐天名号を自刻していました。旭立の法号は丹蓮社権少僧都良輝上人旭立大和尚です。

来迎寺には、遊行中の祐天上人が宿泊した際に「名号流し」を弘めたという言い伝えがあります。この名号流しとは旧盆に祐天上人の名号を刷った紙片を寺の近くの紫波橋から北上川に流して先祖の霊を供養する行事で、近年まで続いていました。

参考文献
旭立・天住合祀墓(来迎寺)

『終南山善導寺之記』天覧

3月20日、館林善導寺(群馬県館林市)74世英亮がまとめた『終南山善導寺之記』が天皇・皇后両陛下と皇太子殿下の天覧に供されました。本書は善導寺不動堂に安置されている不動尊像と祐天上人との関係を明らかにする目的で書かれたものです。善導寺の歴史から始まり、「祐天上人」上・下、「生不動尊」のほか、付録として宝物の目録や歴代上人略記も収録されています。本書はのちに活字化されて『善導寺と祐天上人』と題する小冊子となり、祐天寺でも頒布されました。

参考文献
『終南山善導寺之記』(善導寺)

新善光寺に名号石塔を遷す

12月17日、祐天上人名号石塔が会津街道沿いの柳新田(新潟県東蒲原郡)から津川新善光寺(同県同郡)に遷されました。塔の刻文から、安永3年(1774)に津川町の有力者であった鵜川藤左衛門が建立したことがわかります。

参考文献
祐天上人名号石塔(新善光寺)

俊興、加行

12月、巖谷俊興(のちの祐天寺18世)が増上寺の加行道場に入行し、宗戒両脈を相承しました。俊興は前年4月に宗教大学(現、大正大学)宗教部本科の第1学年に入学していました。

参考文献
『俊興上人の業績』

寺院

仏教日曜学校

この年から仏教大学(現、龍谷大学)の学生が中心となり、大規模な日曜学校運動が展開されていきました。仏教日曜学校とは20〜30歳代の青年僧が中心となり、毎週日曜日に子どもたちに仏教を教えるという、近代の仏教革新運動の1つであり、学生などの青年僧が新しい仏教の在り方を世に問うていくための実践でもあったのです。

特に大正末期から昭和8年(1933)頃までの間に、仏教日曜学校は最盛期を迎えました。これは、都市の大学などで日曜学校の取り組みを経験した青年僧が自坊に戻り、地元で日曜学校を運営するようになったからです。

若い僧たちは、どのように子どもたちと向き合って仏教を教えていくかに悩みながらも、勉強会を開くなどしながら教育方法の改善を重ね、魅力ある学校を作り上げていきました。

参考文献
「青年文化としての仏教日曜学校―大正期の東京における一事例からー」(碧海寿広、『近代仏教』第18号、日本近代仏教史研究会、2011年)
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