1月27日、鎌倉感應寺(廃寺)の尼僧の教道が命を落としました。前年の秋から起きていた連続尼僧殺人事件の被害者となったのです。後日、教道の供養のための地蔵菩薩石像が祐天寺に建立されました。この像を彫ったのは青山(港区)で石屋を営んでいた中村勝五郎です。通称を青山石勝と言い、優れた技量を持っていたことで知られています。
4月16日、愍随は増上寺で開白された徳川家康300回忌法要の副導師を勤めました。この法要は18日に結願しました。
5月、水野幸吉の墓が祐天寺に改葬されました。この墓石には風雅を愛した幸吉の俳号に因み「酔香之骨」と刻まれています。幸吉は中華民国、ドイツ、アメリカなど各国において、優秀な外交官として第一線で活躍しました。明治40年(1907)から同44年(1911)までニューヨーク総領事を務め、日米親善のシンボルとなるポトマック河畔の桜の植樹にも深く寄与します。しかし、大正2年(1913)に大使館参事官として赴任した北京で病に罹り、同3年(1914)5月23日に42歳の若さで客死しました。
8月2日、祐天寺は独礼4等に列せられました。これは5月7日に浄土宗から発布された「寺格及等級規則の更正」に基づくものです。この更正では総本山、大本山、門跡、檀林、別格、能分、平僧の7種類の寺格に、准檀林、独礼、准別格、准能分の4種類を加えて11種類とすることなどが決まりました。祐天寺は今回の更正によって准檀林に次ぐ独礼の寺格となりました。
8月10日、愍随は増上寺77世堀尾貫務大僧正より増上寺大殿再建の勧進職を委嘱されました。
大殿焼失(明治42年「祐天寺」参照)後の増上寺には、浄土宗の末寺はもちろんのこと、徳川公爵家や他宗派寺院からも多額の見舞金が届けられましたが、大殿の再建にはおよそ100万円という巨額の資金が必要でした。100万円の半分を末寺と檀信徒から、残りの半分を一般人から集める計画が進められ、堀尾大僧正は88歳という高齢でありながら、大殿再建資金勧募のため東京市内のみならず北海道まで巡教したということです。
この年の5月25日には宮内省からも補助金として2、000円が下賜され、さらに岩崎久弥・小弥太、渋沢栄一からの喜捨も受けるなどして多くの浄財が集まり、大殿は大正10年(1921)に再建されます。
8月16日の『読売新聞』にて、祐天上人が愚鈍だった理由を医学博士の小野鑛造が解明しました。この記事によると、祐天上人は軟口蓋の後ろに肉塊のようなものができる腺増殖症により、鼻が通らず耳も聞こえなかったために愚鈍だったとされています。その肉塊は口を開ければ見えるほどの大きさだったので、父親または自らが小刀か不動明王に奉納されていた剣で肉塊を取り除くという外科的手術をしたことにより、血を吐き出して鼻が通り、耳も聞こえるようになって、その後はめきめきと天賦の才能を発揮したのだろうということです。小野博士は記事の最後に「子どもの耳が遠いことに気付いたら、耳垢の有無よりも腺増殖症を疑うように」と注意を促しました。
9月10日、川合梁定が編集した『紅黄紫白』が豊田愛山堂から出版されました。本書には、祐天上人が5代将軍 徳川綱吉の「生類憐れみの令」を戒めたという逸話に基づく「祐天僧正と土沙」という次の話が収められています。
宝永の富士噴火の際、綱吉は火山灰が江戸市中に降り注ぐことについて、僧侶や儒者にその吉凶を聞きました。すると祐天上人は「砂は地に在べきもので、それが天から降のは不順である」と答え、また「禽獣は人に飼れる理のものを、禽獣の為に人を害するのも亦た不順と謂可し」と話したということです。この話は、水戸藩(茨城県)儒者の中村浩然が元禄15年(1702)から正徳2年(1712)に掛けて江戸で見聞したことを書きとめた『中村雑記』にも収められています。
9月21〜27日、磐城最勝院(福島県いわき市)において祐天上人御開扉大法会が営まれました。この年は大豊作のうえ大漁だったため磐城・双葉両郡から大勢の参詣者が押し寄せ、境内には露店も並び、善男善女がじゃんがら踊り(一説によると祐天上人が弘めたと言われる、鉦や太鼓を打ち鳴らしながら供養して回る踊念仏の一種)に興じたということです。
11月28日、愍随は浄土宗東京慈善団総裁の堀尾大僧正より同団協議員を委嘱されました。
12月8日、清心院が逝去し、祐天寺内の法好院(明治10年「祐天寺」参照)の墓に合祀されました。また、有馬家から清心院の位牌が納められました。法号は清心院殿圓誉皎月智鏡法尼です。
清心院は六条有言の息女で、名を嘉寿子と言いました。有栖川宮韶仁親王の息女韶子(大正2年「祐天寺」参照)が12代将軍徳川家慶の養女精姫となる際にともに江戸へ下向し、江戸城大奥では上臈の高倉という名で精姫に仕えました。その後、精姫が久留米藩(福岡県)11代藩主有馬頼咸のもとへ嫁ぐ際にも附き従い、精姫が亡くなってからは有馬家の江戸藩邸で主の菩提を弔う生活を送っていたと考えられます。