明顕山 祐天寺

年表

大正2年(1913年)

祐天寺

名号軸、寄進

1月、金戒光明寺(京都市左京区)へ、麻布に書写された祐天上人名号軸が寄進されました。明治21年(1888)に新調された箱の書付けから、元は榊原氏が所蔵していた名号軸であったことがわかります。

参考文献
祐天上人名号軸箱書(金戒光明寺)

涅槃図、修復

2月、釈迦の臨終の情景を描いた涅槃図が、表具師の田中鉦次郎によって仕立て直されました。祐天寺で毎年2月15日に行われている涅槃会では、この涅槃図が本堂に掛けられ、釈迦への報恩追慕の法要が営まれています。
さらに平成9年(1997)には、鉦次郎の孫で同じく表具師の田中正武が涅槃図を再修復しました

参考文献
涅槃図軸木銘

精蓮院、逝去

6月6日、元久留米藩(福岡県久留米市)11代藩主有馬頼咸の正室精蓮院(有栖川宮韶仁親王の息女韶子。12代将軍徳川家慶の養女となって精姫と称するが、明治維新後に名を復す)が逝去し、生前の遺命に従って祐天寺に位牌が納められました。法号は精蓮院殿進誉韶意大姉です。

祐天寺には精蓮院の子どもたちも埋葬されており(嘉永6年・安政元年「祐天寺」参照)、精蓮院は自身の位牌を祐天寺に永世安置するように遺命していたのです。有馬家には、8代藩主頼貴の正室勢代姫(養源院。安永4年「祐天寺」・「説明」参照)が祐天寺に深く帰依したことから、側室やお附き女中を中心に信仰が弘がっていました。

参考文献
精蓮院位牌、『本堂過去霊名簿』

女学校建築資金を寄付

6月20日、愍随は浄土宗立淑徳高等女学校(現、淑徳SC中等部・高等部)の校舎建築資金として50円を寄付しました。

参考文献
『経歴概記』

互任睦らより納札

9月、新橋(港区)の互任睦と志の原から「西方第六番六阿彌陀如来 祐天寺」と書かれた木札が奉納されました。互任睦は祐天寺以外の西方六阿弥陀(明治40年「祐天寺」参照)の各寺院にも木札を奉納したほか、西方六阿弥陀への道順と御詠歌を載せたパンフレット『西方六阿弥陀如来御霊場』を配るなどして巡拝を盛り上げました。そのパンフレットによると各霊場までは平坦な道なので、わずか半日で巡拝できたとのことです。祐天寺の御詠歌は「佛たつみつ むつのあみだを めぐろ村/いく千よろづの とくをつむらん」です。

明治40年代頃から新聞などに紹介されたことにより六阿弥陀・西方六阿弥陀詣が脚光を浴び、春秋の彼岸中に巡拝することがブームとなっていました。作家の永井荷風も知人からこのパンフレットを譲り受けたことを機に、この年の9月24日に出掛けようとしたが果たせなかったと、随筆『大窪だより』に書いています。

参考文献
西方六阿弥陀の木札、『西方六阿弥陀如来御霊場』の再版、『大窪だより』(『荷風全集』13、永井荷風、岩波書店、1963年)

名号付き位牌を寄進

9月、須賀川十念寺(福島県須賀川市)檀家総代の市原又次郎が、厨子入りの祐天上人名号付き位牌を十念寺に寄進しました。

参考文献
祐天上人名号付き位牌(十念寺)

試膽会、開催

11月9日午前0時30分より祐天寺境内にて、武術指南の金子正光主催による第5回試膽会(肝試し)が開かれました。祐天寺が肝試しの会場となった理由は、松や杉が鬱蒼と生い茂って昼間でもほの暗く、ここ数年の間に祐天寺前の林の中で首をくくって死んだ人が10人もいたためです。会は正光の門弟30人のほかに近隣住民も飛び入り参加して盛り上がり、午前4時頃に終了しました。

参考文献
『東京朝日新聞』(1913年11月9・10日付)

任命・叙任

6月23日、愍随は宇都宮善道執綱(現在の宗務総長にあたる)より東京教区会計監査員に任じられました。また、11月30日には増上寺の主事会計課長を依願退職し、このとき増上寺77世堀尾貫務大僧正より、鬱多羅僧(七条袈裟)と賞状を下付されました。さらに、12月25日には堀尾大僧正より権僧正に叙されました。

参考文献
『経歴概記』、『浄土教報』(1913年12月22日付)

大卓子掛を拝領

この年、愍随は大正天皇生母の二位の局より、明治天皇の御座所用紫地鶴亀文様大卓子掛を下賜されました。のちに、この大卓子掛で五条袈裟と大中小の打敷を謹調しました。

参考文献
五条袈裟裏書、『浄土教報』(1918年9月6日付)
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