明顕山 祐天寺

年表

大正元年(1912年)

祐天寺

学禅、遷化

2月6日、芝真乗院(港区)13世学禅が遷化し、祐天寺にある真乗院歴代上人を合祀する亀趺塔にその法号が追刻されました。法号は實蓮社真誉上人成阿法力学禅大和尚です。真乗院は文昭院殿(6代将軍徳川家宣)廟をつかさどる別当寺院です。祐天上人が文昭院殿の葬儀の導師を勤め、祐天上人直弟の億道が初代住職となって以来、祐天寺との深い関わりが続いています。

参考文献
真乗院亀趺塔

『竹坡百画集』出版

3月11日、尾竹竹坡の画集『竹坡百画集』が大阪の飯田呉服店(現、飯田呉服店高島屋)美術部より出版されました。この画集には、幼い祐天上人のもとに不動明王が現れる場面の絵「祐天」が採録されています。

竹坡は幼い頃から神童と呼ばれ、花鳥画を得意としていた浮世絵師であり日本画家です。さまざまな絵画展で受賞し、当時は大変な人気を博していました。飯田呉服店の顧客にも竹坡のファンが多かったため、前年の秋に呉服店が画集の企画を竹坡に持ち掛け、出版が実現したそうです。

参考文献
『竹坡百画集』(尾竹竹坡、飯田呉服店美術部、1912年)

『高僧叢談』出版

4月1日、『高僧叢談』が其中堂より出版されました。本書は高僧の伝記を集めたもので、祐天上人に関しては「祐天上人と師檀通」「祐天上人妖精を退治し玉ふ」「祐天上人と潮音禅師との問答」の3話が収録されています。編者の松宮明学は枚方正念寺(大阪府枚方市)に生まれ、文書伝道家として知られる人物でした。

参考文献
『高僧叢談』(松宮明学、其中堂、1912年)、『浄土宗人名事典』

拝殿、増築

6月7日、愍随は拝殿増築の許可を東京府に願い出て、7月3日に認められました。工事は150日間の予定で進められ、7月28日に上棟式を執り行い、11月30日に落成します。工事を請け負ったのは松崎(静岡県賀茂郡)の大工・齋藤郡蔵でした。

明治27年(1894)の火災(明治27年「祐天寺」参照)後に再建された本堂は、渡り廊下によって拝殿とつながれていたため、法要の際にたびたび不便が生じていました。そこで、渡り廊下を取り除き、21坪5合の木造瓦葺きの平屋を増築することになったのです。また、これまでの本堂を内陣、拝殿を外陣とし、総じて本堂と称することになりました。

参考文献
「拝殿増築許可願」一式、本堂棟札、『経歴概記』

明治天皇尊牌、奉安

7月30日、明治天皇が崩御されました。明治天皇の典侍である早蕨典侍(大正天皇生母・二位の局)の実家が祐天寺の檀家である縁から、愍随は明治天皇の尊牌を祐天寺に奉安しました。

参考文献
明治天皇尊牌

光明院の地蔵尊

7月31日、『東京朝日新聞』で連載中の竹の屋主人(小説家で演劇評論家の饗庭篁村のペンネーム)の紀行文「信濃めぐり」に、松本光明院(廃寺。寛政9年「祐天寺」参照)の石地蔵の話が載りました。

この石地蔵は、光明院の祐天上人本地身地蔵菩薩像が祐天寺へ遷座した際、代わりに祐天寺から光明院へ遷座した地蔵尊のことです。紀行文には「今も(石地蔵への)参詣多し」と書かれています。

その後、戦後の区画整理などの影響により、この地蔵尊は一時行方不明となりましたが、平成28年(2016)10月6日に、松本生安寺(長野県松本市)に祀られている木像仏が光明院へ遷座した地蔵尊であることがわかりました。像の岩座の銘文に、この地蔵尊がかつては祐天寺地蔵堂の本尊であったこと、祐天寺地蔵講中総代の土方清七が施主となり、大仏師竹崎石見によって天明8年(1788)に彫られたことが記されており、今回の発見へとつながったのです。

参考文献
『東京朝日新聞』(1912年7月31日付)、祐天上人本地身地蔵菩薩像(生安寺)

寺院

『大日本佛教全書』出版

この年から大正11年(1922)に掛けて『大日本佛教全書』が出版されました。南条文雄が会長、高楠順次郎・望月信亨・大村西崖らが主事となって仏書刊行会を設立し、多数の学者の協力のもとに、本編150巻、巻子本10巻、目録1巻を出版したもので、日本仏教における貴重な文献の集大成となりました。

本書の出版によって、それまでは古社寺や蔵書家に秘蔵されていて研究者は見ることができなかった古写本類や稀覯本が公開されることになったのです。華厳・天台・法相・浄土・倶舎などに関する名著をはじめ、僧侶の海外旅行記や日記、寺誌、密教の秘伝書なども公開され、仏教研究のためだけではなく、日本の歴史研究にとっても重要な資料となりました。

参考文献
『大日本佛教全書』(仏書刊行会編集・発行、1912年)
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