1月20日、東陽堂より『大日本名所図絵』シリーズの第84編『東京近郊名所図絵』9巻が出版されました。本書で祐天寺は「天の祐くる寺ときく。今も栄ゆる深山には。蝶の羽音も耳に入る。夢の浮世にめづらしや」と紹介されています。
表門の横に「舞う蝶の音聞くほとのみやまかな」と刻まれた句碑が建立されたのは、安政5年(1858)のことでした。それから近代化が進んだ明治末年となっても、祐天寺の境内は木々が鬱蒼としていて静かだったことがわかります。
2月25日、愍随は増上寺77世堀尾貫務大僧正より、知恩院において3月1日から7日間にわたって厳修される法然上人700年御遠忌大会への随行を命じられました。
3月19日に愍随は堀尾大僧正より門末僧侶功績選考委員を、6月1日には浄土宗労働共済会評議委員を委嘱されました。また、8月2日には増上寺の会計課長に任命され、これ以後、愍随は増上寺の経営に深く関わるようになります。
4月、恵比寿南(渋谷区)の馬頭観音堂が再建され、法会が執り行われました。この馬頭観音の縁起は次のとおりです。享保4年(1719)に付近で悪病が流行した際、与右衛門という人が馬頭観音に祈って悪病を退散させました。村人たちは感謝して馬頭観音の石像を造り、祐天寺2世の祐海に加持祈祷を依頼して観音坂(別名、新富士坂)に祀りました。以後、村人たちは毎年百萬遍念仏会を開いて供養し続けたため、悪病に悩まされることはなくなったということです。また、坂の下には祐天名号付き道しるべがあります。この坂は、江戸の町から麻布を経て目黒へと続く最短の道として知られ、多くの人々が祐天寺参詣のために通った道でした。
5月、消防組の有志で結成される大師睦より、纏の彫刻が施された扁額が奉納され、本堂に掛けられました。この扁額を彫った額師の鬼遊は信仰心が篤く、賛同する信者たちを募って奉納した扁額は1、000面以上あると言われています。
5月、岸田隆玉が書写した般若心経が額に仕立てられ、奉納されました。
8月1日、須賀川十念寺(福島県須賀川市)が旧蔵していた祐天上人の数珠を納める箱が新調されました。十念寺31世雲誉の箱書から、この数珠は岡田重兵衛から十念寺に寄付されたものであることがわかります。また、重兵衛は磐城(福島県いわき市)出身であったことから、元禄年間(1688~1703)に祐天上人名号軸を同寺に寄付した岡田十兵衛(明治17年「祐天寺」参照)と同一人物で、祐海の実家である岡田家の関係者と考えられます。この数珠は平成24年(2012)に十念寺から祐天寺に奉納されました。
9月6日の午後4時頃、祐天寺の境内で、車夫の身なりをした40歳くらいの男性が首を吊って死んでいるのが見付かりました。検視のあと、遺体は目黒村の役人に引き渡されました。
10月1日、大阪の樋口蜻輝堂より『大家十八番浪花節講演集』が出版されました。定価は30銭でした。本書には浪花家小虎丸が講演した「成田土産祐天上人の由来」が収載されています。これは、成田不動の霊験によって祐天上人が知恵を授かり、日本希代の名僧となる話です。
12月25日、愍随は山下現有浄土宗管長より、法然上人700年御忌奉修への功労として安陀会(五条袈裟)と法然上人の諡号額を拝領しました。
この年、富岡観音堂(群馬県富岡市)の祐天上人名号石塔が天台宗の金剛院(同市)境内に移転されました。この石塔は元禄4年(1691)10月22日に、千日回向の成満を記念して建立された千日惣回向塔です。観音堂の廃堂に伴う移転でした。
『富岡むかしばなし』には「元禄年間に富岡付近で麻疹が流行したとき、祐天上人が祈願されたことを記念して建立された」と書かれています。この石塔は平成4年(1992)に富岡市指定重要文化財に登録されました。
3月、仏教社会事業の先駆となる「浄土宗労働共済会」が設立されました。明治43年(1910)、宗教大学(現、大正大学)と東洋大学の教授であり、深川西光寺(墨田区)住職でもあった渡辺海旭は、法然上人700回御遠忌の記念事業として深川区(現、江東区)に無料職業紹介所「衆生恩会」を設立。同所に宿泊所を付設したほか、労働者の慰安設備を設けるために浄土宗労働保護協議会を結成しました。この協議会が浄土宗労働共済会と改称されたのです。
この共済会は労働者の生活状態を改善・向上させるため、寄宿舎や託児所の設置、慰安制度および教訓の制定、廃疾者救護の手続き、住宅改良などさまざまな活動を行いました。そして、下級労働者保護における画期的な施設となり、そのため各方面から援助が得られ、大正元年(1912)3月には内務省からも奨励金500円を受けています。しかし、第2次世界大戦後は時代の流れとともにその役割を終えました。