1月1日、愍随の歌5首が『浄土教報』に掲載されました。
[雪中松]
ふり積る 雪間に見えて めてたきは
まつの常磐の 色にそありける
[特留此經]
みゆき降る 冬かれの日も 色かへぬ
まつにたとへむ 彌陀のみ教へ
[歳端述懐]
春ことに 年かさぬとも のりのため
こゝろは老し 身のはつるまて
[新年]
こその罪 よへのね佛に 消えはてて
こゝろきよくも 迎ふとしかな
[友に寄す]
あら玉の 年は来にけり のりのもと
いよゝはけみて 道つたへなん
「歳端述懐」と題する歌からは、仏のみ教えを護ろうという愍随の強い意志が感じられます。
1月25日、愍随の息子で母方の姓を継いでいた牧野祐生が得度し、愍随から袈裟着用の許状が授与されました。
4月1日の午前1時5分頃、増上寺大殿の東北隅の床下より発火し、大殿が大炎上しました。
炎は大殿を焼き尽くし、通天橋を伝わって護国殿へと延焼し始めます。このとき、山内にある天陽院の住職である笠原立定は危険を顧みず猛火に飛び込み、秘仏徳川家康念持仏の黒本尊を避難させましたが、そのほかの仏像や宝物は灰燼に帰しました。
5月5日、愍随は増上寺77世堀尾貫務大僧正より法然上人700年御遠忌準備局評議員の任を解かれ、即日、大殿建築評議員に任命されます。以後、愍随は大殿建築事務委員や会計主任などを務め、大殿再建に尽力することとなりました。
6月、日本画家の松本楓湖が主宰する名所歴廻会の会員が祐天寺を訪れました。この会は東京府下の名所旧跡を訪れ、『江戸名所図会』が描かれた天保年間(1830〜43)頃の景色と比較して写生する人々の集まりです。このときは第1回目として渋谷金王八幡(渋谷区)から祐天寺までの名所を歴訪しました。
7月13日、『東京朝日新聞』の「今日の歴史」というコラム欄で祐天上人の生涯が紹介されました。このコラムは毎日、その日付に起こった歴史を紹介しています。この日の記事では、祐天上人は192年前の7月13日に亡くなったとされていますが、祐天上人が実際に遷化されたのは7月15日です